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<見逃し動画>8月12日放送 
「ガダルカナル 大敗北の真相」
 
TVerでは配信されていません
 
8月12日放送の公式あらすじ

エピソード1 海底に眠る巨大潜水艦
2014年10月、NHKはハワイ大学と共同で、ハワイ・オアフ島沖での潜水調査を実施しました。そして伊400の最も重要な部分ともいえる「格納筒」を発見。初めて撮影に成功しました。海底に眠る伊400の映像、そしてCGで幻の巨大潜水艦がよみがえります。
 
エピソード2 日本海軍の極秘計画
アメリカ本土攻撃――連合艦隊司令長官・山本五十六のこの構想のもと、極秘裏に始まった「潜水空母」計画。伊400の建造は設計段階から困難を極めました。なかでも難題は「翼全長12mの航空機を直径およそ4mの格納筒に入れる」こと。いったいどのようにして解決したのでしょうか――?
 
エピソード3 伊400と若き乗組員たち
終戦の前年に完成した伊400。乗組員たちの多くは10~20代の若者でした。その彼らに与えられた任務とはアメリカの大艦隊への「特攻」。死を覚悟して出撃した若者たちを、しかし思いもよらぬ事態が待ち受けていました。その時、全乗組員を率いる伊400艦長が下した決断は・・・・・・。
 
<出典>NHK公式

8月12日放送のネタバレはここをクリック
1942(昭和17)年8月以降半年の長きにわたり、第2次世界大戦下で日本軍と連合軍が、南太平洋ソロモン諸島の「ガダルカナル島」を巡って繰り広げた戦いが「ガダルカナル島の戦い」である。
日本側は激しい消耗戦によって多数の兵士を餓死させ、軍艦や航空機、武器等多くを失って大敗北してしまった。
 
この戦いは太平洋戦争の転換点となったのだが、去年(2019年)その激戦の詳細を明かす新資料が発見された。
機密指定を解かれた米軍の内部文書に日米の知られざる攻防が刻まれていたという。
実は日本軍の猛攻撃を受けた米軍は敗北の瀬戸際に追い込まれていたというのだ。
 
ではなぜ、一時的にでも有利に立っていたはずの日本軍が敗れることになったか。
この敗北の裏には共同作戦に打って出た「陸海軍の不協和音」があったからだった。
 
飢餓地獄と化した戦場のジャングルでサバイバルに挑まなければならなくなってしまった多くの兵士たち。
初めて公開される日本軍参謀、および兵士の日誌から、この戦いの真実を解き明かしていく。
 
 
エリートたちの判断ミス
去年アメリカでこの戦いの一部を克明に記録した未公開フィルムが見つかった。
アメリカの部隊「海兵隊」を映した映像だ。
海兵隊は厳しいトレーニングを積んだ屈強な部隊だった。
 
対する日本軍も島での戦いに特化した精鋭部隊で構成されていた。
陸軍の一木(いちき)支隊である。先遣隊916人。リーダーは一木清直(いちき きよなお)大佐。
優秀な一木支隊の勝利は確実と思われていた。しかし予想外の連合軍の反撃にあい苦戦を余儀なくされた。
連合軍の兵力は1万900人。10倍の兵力と対峙した一木支隊は全滅となった。
 
原因は作戦をたてたエリート参謀たちの致命的なミスだった。
なぜそのようなミスが起きたのか。
 
1941年12月、真珠湾攻撃を皮切りに太平洋戦争に突入した日本軍。
 
開戦から数か月の間、アジア太平洋地域で連戦連勝を重ねて行った。
戦線拡大を進める中、日本軍はアメリカのハワイとオーストラリアの間にあるガダルカナル島に注目した。
ここに日本軍の飛行場を作り、連合国軍を分断しようとしていたのだ。
 
日本海軍は現地の住民を雇い急ピッチで飛行場の建設を進めていった。
 
だが、1942年8月海兵隊が上陸作戦を開始、圧倒的戦力の海兵隊は、島にいた日本海軍を捕虜にし完成直前の飛行場を占領、整備をはじめた。
 
米軍が攻め寄せたという知らせはすぐに日本の最高司令部「大本営」に届いた。
大本営内部は海軍と陸軍にわかれていた。
 
飛行場奪還のだめ海軍は陸軍に共同作戦をとることを求めた。
こうして太平洋初の「地区海軍共同作戦」が実行されることになった。
 
まずは海軍の艦隊に出撃命令が下り、第八艦隊司令長官・三川軍一中将が指揮をとり夜の闇に紛れ奇襲攻撃をしかけた。
この「第一次ソロモン海戦」で日本軍は一隻の船も失うことないという大戦果を治めた。
アメリカ軍艦隊はガダルカナルから撤退。島に置き去りにされた海兵隊は絶対絶命の危機にさらされる。
 
勝利をおさめた大本営の参謀たちは飛行場奪還にあたる陸軍部隊の規模について検討していた。
 
問題となったのは敵の兵力。
海軍参謀はソロモンに上陸以前は敵の兵力は1万5000人と推測していた、ほとんど誤差の無い素晴らしい推測だった。
ところが第一次ソロモン海戦で勝利をおさめた後、ガダルカナル上空の日本軍の偵察機から「米軍艦隊が撤退した」というしらせをうけたことから、上陸していた米軍兵士も島から逃げたと考えるようになってしまったのだ。
 
陸軍が推定した敵の兵力はたったの「2000人」だった。それは実際とは遥かにかけはなれ、なんと5分の1。致命的なミスがここに始まった。
 
アメリカ軍は壊滅的な被害をうけており、本格的な反攻に出るのはもっと先のはずという勝手な思い込みもあった。
ここまでの連戦連勝により楽観的な考えが、つい大本営の判断ミスへと繋がった。
 
大本営の甘い見積もりに現地軍の司令部にいた参謀長・二見秋三郎(ふたみあきさぶろう)少将は異論を唱えた。二見参謀長の推測ではまだ米軍は7000から8000人は残っていると推定していた。
1000人にも満たない一木支隊とでは戦力差は歴然である。
 
去年公開された二見参謀長の手帳には海軍への不安が書かれていた。しかしその姿勢を部下たちは「弱腰」と考え猛反発を受ける。
当時の軍隊の風潮では「弱いことを言うのは卑怯者」と精神力が重視されていた。
二見参謀長の意見は周囲の圧力にかき消されていったのだ。
 
8月20日夜10時30分、一木支隊は10倍もの敵の勢力がいるとは思わず暗闇の中奇襲をしかけようと米軍陣地に接近していった。
ところが上空に照明弾があがり、待ち伏せしていた米軍に十字砲火をあびた。
さらには戦車までもが投入されて日本軍916人中777人が戦死するという、かつてない大敗北となってしまった。
 
しかし大本営の参謀たちは失敗の原因を見極めることはしなかったのだ。
 
 
日本軍最大のチャンス
米軍は情報戦をしかけていた。マイクをしかけた監視装置を設置、日本軍の夜間の奇襲にそなえようとした。
さらにはスパイ工作として島の住人を雇い入れて広大な監視網を築いていた。
日本軍の作戦は米軍に筒抜けだった。
 
1942年9月7日。
日本軍は次の一手として日本はジャングルでの戦いに精通した川口支隊を上陸させた。
指揮官の川口清健(かわぐちきよたけ)陸軍少将は陽動作戦で米軍の隙をつき飛行場に接近、敵の司令部の間近まで接近していた。絶好のチャンスが日本軍に訪れていた。
 
実はこの場面についても新たに発見された米軍の戦闘記録が残っていた。
 
9月7日には31機の戦闘機が飛行場に派遣され米軍の装備は着々と補充されていた。また海兵隊は迫撃砲などの強力な重火器をも同時に用意していた。
さらには日本軍の奇襲にもそなえ、飛行場の周りに有刺鉄線を巡らせ難攻不落の陣地を築いていた。
 
それに対して日本軍の大本営は次の計画をたてていた。
6000人からなる川口支隊はジャングルの中を歩き飛行場を目指した。
 
川口少将の作戦は、まず米軍司令部を落とし、司令部を失った兵士は動きが麻痺する。
その隙に飛行場を占領できるというものだった。ガダルカナル島を維持できなかった米軍を退ける事ができると考えたのだ。
 
米軍司令部の目前まで迫った川口支隊。
しかしあと一歩のところで米軍の反撃にあってしまう。
 
敗退の原因のひとつは火力の不足だった。
輸送船を日本海軍が出し渋ったのが発端であった。船を失いたくなかった為だ。
輸送船ではなく駆逐艦を使うという大本営。
 
大量の兵器などの物資を運ぶには輸送船が必要だった。
十分に戦えるほどの火力の補充ができなかった川口支隊は633人もの犠牲を出し敗退。
 
生き残った兵5000人近くが火力もなく食糧も無いまま。
その当時、二見参謀長は日記に「なんという悲惨な戦になったものか」と書き、これを知った大本営は「戦いを悲観している」とし事実上、二見参謀長の更迭を決定。
新たな作戦の準備をはじめる。
 
こうして日本軍は2度の大敗北となった。
しかしまだここからが悲劇の始まりだった。
 
 
明暗分けた補給と輸送
飛行場を守り切った米軍は制空権を獲得、安全な輸送ルートの確保に成功。
戦場には最新兵器・水陸両用車などが持ち込まれた。当然増援部隊もやってくる。
 
日本軍でも2万人以上の兵や物資を島に送り込もうとするも、輸送船がことごとく米軍の戦闘機の攻撃にあい沈められてしまい島への補給は困難となっていく。
 
再三にわたり兵を送り込んでいた日本軍の兵士たちは次の機会をねらいジャングルへと身を隠した。
その数は日増しにふくれあがり物資も食料もないままに決死のサバイバルに追い込まれた。
 
島に生えていた椰子の実を食べて一時的にはしのぐこともできたが、すぐに食べつくしてしまった。植物、虫など何でも食べた。だが徐々に体力は奪われていく。
飢餓にさいなまれながらも兵士たちは戦いを続けていたのだが少しずつ飢えと病気で死んでいく。「飢餓の島」と呼ばれたほどだった。
 
次第に陸軍も海軍も追い詰められていく。
海軍は戦艦を失い続け、その被害の多さに耐え兼ねガダルカナル島からの撤退を考え始め、島の放棄を陸軍へと申し出る。
こうして陸軍と海軍の意見は真っ二つに分かれてしまう。
大本営での打開策は示されず時間ばかりが経過、島では15000人もの兵士の命が失われていった。
 
5か月もの飢餓と戦場をくぐり抜けた人がいる。陸軍の小尾靖夫(おびやすお)少尉だ。
戦後、彼はアメリカで貿易商として活躍する。1963年かつて戦った米軍の兵士と再会し、手記を残した。
 
「ひとたび戦争が起きたら 個人ではどうすることもできない
だからこそ平和の為に努力することが 個人の最高の義務だ」
8月12日放送の感想はここをクリック
人間の人生を簡単に変えてしまう戦争。
今回の放送では陸軍と海軍の矮小な「見栄やプライド」により翻弄された多くの兵士たちの悲惨な運命を見た。しかし日本軍だけではなく恐らく米軍や、他の戦争でも差こそあれど、このような状況に何度も陥っていたのではなかろうか。
 
人種や歳など関係なく戦争では必ずと言っていいほどこのパターンが繰り返されていた。
指令を出す人間はあくまでも机上の空論を重ねるのみで実際に苦しむのは私たちのような民間人だ。
 
だからこそ、自分の頭で考え、世の中の動きをきちんと見極める事が必要になるのだ。
一部の人を除き、戦争をしたい人はいない。穏やかに暮らしたいだけだ。
無関心や情報不足、思想の束縛など、少しずつでも自分の周りでおかしいと思う兆しが見えたら、と常に気をつけなければならない。
 
現在でもまだ日本では「戦争の事実」をほとんど公表していない。
民間では語り部などが苦しい胸のうちを公表してくれているが、国のトップは過去を省みない部分が多過ぎるし、何かをひた隠しにしている。
 
耳に心地の良い事ばかりを求めていてはいけない。
せっかく情報が多くなった現代社会では嫌な事にも怖い事にも目を向けていかないといけないのだ。
 
この番組は2019年に放送された「NHKスペシャル 激闘ガダルカナル 悲劇の指揮官」とほぼ同じ内容を編集し、多少追加もされているが、受けるニュアンスが少し違う。そちらも見ることを薦めたい。
<見逃し動画>8月5日放送 
「伊400 幻の巨大潜水艦」
 
TVerでは配信されていません
 
8月5日放送の公式あらすじ

エピソード1 海底に眠る巨大潜水艦
2014年10月、NHKはハワイ大学と共同で、ハワイ・オアフ島沖での潜水調査を実施しました。そして伊400の最も重要な部分ともいえる「格納筒」を発見。初めて撮影に成功しました。海底に眠る伊400の映像、そしてCGで幻の巨大潜水艦がよみがえります。
 
エピソード2 日本海軍の極秘計画
アメリカ本土攻撃――連合艦隊司令長官・山本五十六のこの構想のもと、極秘裏に始まった「潜水空母」計画。伊400の建造は設計段階から困難を極めました。なかでも難題は「翼全長12mの航空機を直径およそ4mの格納筒に入れる」こと。いったいどのようにして解決したのでしょうか――?
 
エピソード3 伊400と若き乗組員たち
終戦の前年に完成した伊400。乗組員たちの多くは10~20代の若者でした。その彼らに与えられた任務とはアメリカの大艦隊への「特攻」。死を覚悟して出撃した若者たちを、しかし思いもよらぬ事態が待ち受けていました。その時、全乗組員を率いる伊400艦長が下した決断は・・・・・・。
 
<出典>NHK公式

8月5日放送のネタバレはここをクリック
太平洋戦争終結から今年で75年。近年、戦時中に作られた戦艦がいくつも海底から発見されている。
 
旧日本海軍は極秘に巨大最新潜水艦「伊400(いよんひゃく) 」を作った。
直接アメリカの都市を爆撃しようという計画に基づいて作られた。
今回、オアフ島沖の海底ではじめて撮影された「伊400」の姿を紹介する。
 
「伊400」に乗船したのは当時10代から20代の若者だった。この巨大潜水艦とともに運命の渦に巻き込まれていく。
「伊400」に乗り込んだ彼らに下されたのは急な作戦中止命令、そして新たな命令はアメリカ大艦隊への「特攻」だった。そして海上で聞いた日本の敗戦。
「国のため」と命を投げ出すように言われ続けてきた兵士たちはどのような行動をとったのか。
 
巨大潜水艦と乗組員たちの激動の人生を追っていく。
 
 
「伊400」の潜水撮影
幻の巨大戦艦「伊400」を、NHKはハワイ大学と共同で潜水撮影による調査を行った。
場所はハワイ・オアフ島の沖合だ。1946年に「伊400」がアメリカ軍によって撃沈処分された場所。
 
調査用潜水艇が海底の「伊400」にたどり着くまで30分以上の時間を要する。
やがて伊400の最後尾が見えてきた。徐々に船首方向へ進んでいく。
全長122メートル、太平洋戦争中に作られた潜水艦としては最大である。
やがて見えて来た14センチ砲。
さらには格納筒(かくのうとう)があった。ここが「伊400」の要と言われる。
この格納筒には攻撃機が3機収納できた。敵を空から攻撃できる巨大潜水空母だったのだ。
 
 
秘密兵器「伊400」計画
「伊400」の立案は山本五十六。
1941年の真珠湾攻撃を皮切りに太平洋戦争がはじまった。
このとき既に戦争を終結させるための作戦として山本は、アメリカ本土への攻撃を予定していた。
 
開戦2か月後には潜水艦でアメリカ本土を大砲で攻撃、被害は少なかったが本土を攻撃されたことでアメリカはパニック。
山本と海軍は予想以上の成果に新しい潜水艦の建造を計画しはじめた。
 
「伊400」はアメリカとの戦争を早めに集結させるために「切り札」として作られたのだ。
狙いはアメリカ東海岸。アメリカの中枢である大都市を攻撃、敵の戦意を喪失させ和平条約を締結させるのを目的としていた。
 
 
世界最大潜水艦「伊400」プロジェクト
「伊400」が巨大になったのは戦闘機の「格納筒」の搭載のためだった。
広島県呉市には東洋一といわれた海軍工場があった。戦艦大和と同じドックで「伊400」は作られた。
「伊400」の開発でまず開発者の頭を悩ませたのは船体の「バランス」。潜水艇がひっくり返っては元も子もない。
試行錯誤を繰り返し2つの船体を並べ、その上に格納筒を並べたことで重心をさげ安定感を保てるようになった。
 
また搭載する攻撃機も新たに開発された。
特殊攻撃機「晴嵐(せいらん)」だ。
現在もスミソニアン博物館に実物が眠っている。
直径4mの筒型の格納筒に主翼の12メートルをどうおさめるか。
プロペラの大きさの直径を基に格納筒を計画したため特殊な方法で収納しなければならない。
 
後ろの水平尾翼を折り曲げ、垂直尾翼を折り曲げる。主翼を回転させて後ろに折りたたむと4mに収まるのだ。
狭い場所にきっちりと納める、日本人の得意技を生かした。攻撃力を保ちながら、コンパクト。
「晴嵐」以外このような形状の戦闘機は世界には存在しないと言われている。
 
 
若き乗組員たち
1944年「伊400」が完成。3年近くの年月を要した。
乗組員は195名、多くが10代から20代の若者だった。
呉市出身の山西義政さんは22歳で乗組員となった。17歳の最年少の乗組員もいた。
高塚一夫さんだ。
大きな船に乗れる、すごい船に乗れるとワクワクしたそうだ。
しかし彼らは時代の荒波に翻弄されていくのだ。
 
 
パナマ運河封鎖作戦
「伊400」が完成した頃には、実は太平洋戦争の戦局は変わりつつあった。
同盟国だったイタリアは既に降伏、ドイツも劣勢となっていた。
 
ドイツが負ければアメリカは大西洋から移動し、太平洋に入り日本をを攻撃してくるようになるだろう。
その際、恐らくアメリカ軍は最短である「パナマ運河」を通ってくるはず。
ここを通行不能にすることでアメリカの太平洋への転回を大幅に遅らせることができると考えた。
 
「伊400」はパナマ運河攻撃につかわれることになった。
それを予想し「伊400」では乗組員たちの厳しい訓練が行われた。
 
敵の目をかいくぐり接近し海上に急浮上、「晴嵐」を発進し直ちに潜行。
敵に見つからず短時間での作業が必要となる。この作戦の肝となるのが「晴嵐」の発進をいかに短時間におさめるか。
 
しかしはじめは3機飛ばすのに半日以上を擁してしまった。
そこで手順を反復練習、総動員で厳しい訓練を行った。
3機出動に半日以上かかっていたものを大幅に短縮し15~20分で3機を飛び立たせるまでになった。
 
 
新しい作戦
ところが1945年6月潜水隊司令部から「パナマ攻撃」取りやめの命令が下された。
「伊400」が訓練を行っている間に、戦争が最終局面を迎えていた。
5月同盟国ドイツが降伏、既にアメリカ艦隊は太平洋に移動していたため「パナマ運河」を攻撃する必要はなくなっていた。
 
さらにアメリカ軍は沖縄に上陸、本土決戦が目前に迫っていた。
 
「伊400」の新たな任務は南太平洋、ウルシー環礁への攻撃だった。
そこにはアメリカ大艦隊が集結、日本への攻撃に備えていた。
 
「晴嵐」の搭乗員にも新たな任務が下されていた。それは「特攻」。
 
1945年7月。出航を前に「晴嵐」の搭乗員が集められ「短刀」が授けられた。
短刀は特攻の任務に就く証。郷里の母にその短刀を形見として送っていたものもいた。
 
7月20日「伊400」出撃。
最年少乗組員だった高塚さんは自分自身は「死の恐怖」などは感じてはいなかったものの他の乗組員とのかかわりで「生きて戻る」ということを改めて考えるようになっていった。
山西さんも仲間と戦後は実家の広島の「干し柿」を売って暮らそうと話すこともあった。
「伊400」という戦艦内での人とのかかわり。
「特攻」という死と隣り合わせの状況で、若者たちはそれぞれ「生きる」ことに向き合い始めていた。
 
8月6日、広島に原子爆弾が投下された。
「伊400」の乗組員たちは広島が壊滅的状況になったことを海上で知ることとなった。
広島出身の山西さんの想像をはるかに超えた知らせだったのと自分自身が生きて帰れるかどうかという状況であったため、その知らせを聞いても実感はなく山西さんは戸惑った。
 
やがて終戦の日を迎える。
直後、艦内では降伏を潔しとしない者の意見も聞こえてはきたが、艦長である日下敏夫中佐は「生きて帰る・呉に戻る」と宣言した。
帰国する途中「伊400」は日本近海でアメリカ軍に拿捕される。
 
8月末「伊400」は日本に戻った。高塚さん生きて帰れたことを嬉しく思った。
9月「伊400」の乗組員が解放され山西さんはようやく故郷の広島に戻った。
しかしもう母は爆弾により亡くなっておりたった1人焼け野原に残されてしまった。
 
「伊400」は1946年にハワイ沖に運ばれアメリカ軍にて精査されることとなっていたがアメリカ軍は突然爆破し海に沈めてしまった。ソ連からの検分を恐れたからだとも言われている。
 
こうして「伊400」はハワイ沖で長い眠りにつくことになった。
 
戦後、元乗組員の高塚さんは船に乗り込み復員船の機関士となり働いた。
山西さんは焼け野原となった広島でひとり、闇市で商売をはじめ市内に自分の店を開くまでとなった。
やがてショッピングセンターを展開するようになった山西さんは闇市で最初に「干し柿」を売ったという。
「伊400」内で仲間と話をしたあの「干し柿」だ。焼け野原から山西さんが立ち上がる力となったのだった。
山西さんは97歳で今年4月に亡くなるまで戦争の話を語り継ごうとされていた。
8月5日放送の感想はここをクリック
広島に原爆が落とされた日、そして終戦の日などが今年もやって来た。
また新しい歴史の事実が知られることとなったが、そのたびに当時の人々が「必死に生きた」貴重な人生がまるで映画のように語られ耳に入ってくる。
子供の頃は全く実感としては捕らえられずただ「怖いこと」でしかなかった戦争。
 
75年という歳月を経ても変わらないことは、当時から人々には確実に生活があって、家族があった。繋がっていた人と人がいた。
戦時中という特殊な状況下においても、わずかでもあった「ひととのかかわり」が多くのもの失っても生きるきっかけとなっていた。
潜水艦に乗っていた若者同士が話をしたこと、それわずかな時間であっただろうけれど、濃い時間だったのだろう。
 
そしてひとりとして、戦争が正しかったと語る人はない。
こうして辛いことも語り継いでくださる方のおかげで自分の身にも起こり得ることだと自覚することができるのだ。
風化させてはいけない「戦争」と言う事実。皆が「なければいい」と思うのになくならないのは何故だろうか。
今年は特に多方面から私は考えさせられている。
<見逃し動画>7月29日放送 
「だからあなたと歩きたい愛新覚羅溥傑・浩 松下幸之助むめの」
 
TVerでは配信されていません
 
7月29日放送の公式あらすじ

エピソード1 ふたり 腕を組んで
満州国皇帝の弟である愛新覚羅溥傑に嫁いだ日本の嵯峨侯爵家の令嬢 浩、それは政略結婚でした。それでも愛を育み、家族となっていった二人を戦争の時代が翻弄します。16年ものあいだ引き裂かれることとなった夫婦を結び続けたのは「手紙」でした。
 
エピソード2 奥さん ありがとう
戦後日本を代表する企業家・松下幸之助と妻のむめの。勤め先を辞めた夫の起こした小さな電器会社が夫婦のスタートでした。貧乏にめげずヒット製品を生み、しかし、世界恐慌や戦争、戦後の公職追放など苦難は数知れず・・・「経営の神様」の陰にはむめのさんの明るく、たくましい奮闘がありました。
 
<出典>NHK公式

7月29日放送のネタバレはここをクリック
今は人と人とのつながりが問われる時代となってきている。家族の在り方そして夫婦のあり方も例外ではない。
&nbs;
映画「ラストエンペラー」で有名な溥儀(ふぎ)の弟である愛新覚羅溥傑(あいしんかくらふけつ)と「流転の王妃」と呼ばれたその妻・浩(ひろ)は歴史の渦に巻き込まれ国際結婚をし、戦後16年間も離れて生活することとなった。
夫婦の間を繋いだのは手紙。紡がれた言葉の数々と離れていても変わらぬ絆を紹介。
&nbs;
2組目は世界的大企業であるナショナル(現パナソニック)を世界恐慌など何度も窮地に立たされながらも支え、築き上げた経営の神さま・松下幸之助とむめの夫妻の知られざる2人3客とは。
&nbs;
2組の波乱の人生を共に送った夫婦の絆が我々に教えてくれるものはなんだろうか。
&nbs;
 
愛新覚羅溥傑とその妻・浩
愛新覚羅溥儀の弟である溥傑は、溥儀と共に歴史の波に翻弄された。
溥儀と妻となる浩の2人が結婚したのは日本が大陸進出を目指し何度も戦争が起こっていた激動の時代だった。
 
2人が出会うきっかけとなったのは1932年に中国東北部に満州国が建国を宣言したこと。
 
その国で兄の溥儀が幼くして清(しん)国の最期の皇帝となったものの、その実、満州国は日本軍の傀儡(かいらい)国家であったと言われ、溥儀自身は本質的な皇帝としては何の力も持っていなかった。
 
実質その権力は日本の「関東軍(かんとうぐん)」が握っていたのだ。
日本に留学していた溥傑は、関東軍の満州国での支配をさらに強力にしようという思惑に利用されようとしていた。
日本の女性と溥傑を結婚させ、間に生まれた子供を満州国の次の皇帝とするという案だった。
結婚相手に選ばれたのは嵯峨実勝(さがさねとう)侯爵の長女である浩(ひろ)だった。
何不自由なく育った浩は溥傑との見合いを最初は嫌がっていたが関東軍に逆らうことは一族の未来を考えると難しかった。
 
実際に溥儀と浩が会ってみると互いに心惹かれ合う何かがあった。
 
半年後2人は結婚、満州国の首都・新京(現中国の長春)で生活をはじめた。
しかし甘い新婚生活とは程遠く、関東軍により常に厳しく監視され、兄である皇帝・溥儀からも浩は関東軍のスパイではないかと疑われていたのだった。
 
その陰には溥儀と関東軍の交わした密約があった。
溥儀の元に男子が生まれなかった場合は次の皇帝は日本の天皇が決定すると言う内容のものだ。
そのため、溥儀は溥傑と浩の間に男子が生まれたら自分は必要なくなり殺されてしまうのではないかと常に不安を感じていたからだとも思われる。
 
さらに1937年7月に日中戦争が勃発、日本と満州、中国。
国家の利害の中、溥傑・浩夫婦は孤立していった。
互いに支えとなるのは夫婦だけだった。
 
やがて2人の間には女の子が2人生まれた。家族で過ごせることの幸せをかみしめていたが1945年日本が敗戦したことで夫婦にはさらなる試練が訪れた。
 
敗戦直前にはソ連軍が満州へと攻め入って来た。溥傑と浩も2手に分かれて空路と陸路で逃亡を図ったが溥傑はソ連軍に拘束されてしまった。
浩と娘たちも中国共産党軍に捕まってしまい、浩は劣悪な環境の元で厳しい取り調べを受けた。
浩が日本に帰国できたのはそれから1年半後、1947年のことだった。
 
歳月は流れ日本国民の間では平穏さが取り戻されていたが浩は不安な気持ちのままだった。溥傑は行方不明のまま。
 
しかし1954年に浩の元にようやく溥傑から手紙が届いた。
「撫順(ぶじゅん)にいて元気だ」という内容だったが、溥傑は撫順の戦犯管理所に収容されていた。そのため会うことはかなわず手紙だけが夫婦を繋いでいた。
 
浩が溥傑に送った手紙は主に2人の娘の事だった。娘の無事な成長に対する感謝を溥傑は浩へと手紙にしたためて送った。管理所で自分で写真たてを作り家族の写真を飾りいつも眺めた。
しかし長女の慧生(けいせい)が死亡してしまった。同級生の男性との心中といわれている。夫婦は互いに自分を責めた。
 
その3年後ようやく溥傑は釈放された。
1961年の事だった。16年ぶりの再会。汽車で駅まで迎えに出た浩と娘。
浩は溥傑へと娘の遺骨を抱いて謝るが、溥傑は何も言わず浩の抱いていた娘の遺骨を自分の手に取り、結婚当初2人がいつも腕を組んで歩いていたように自分の腕を差し出したのだ。
「浩さん、腕を組みませんか」と。
 
この瞬間夫婦の間にあった長い時間のわだかまりが吹き払われたと浩は自分の書に書いている。。
その後2人は北京で26年間仲睦まじく、ようやく穏やかに暮らした。
浩が1987年に息を引き取った時には溥傑は浩の名を何度も呼びながら泣きじゃくって妻の遺体に取りすがっていたと娘さんが語っている。
大変な人生ではあったが、女性として愛され続けてきた浩はきっと幸せだったのではないだろうか。
 
 
松下幸之助とむめの
もう一組は、経営の神さまと呼ばれた松下幸之助・むめの夫婦の話。
 
妻を褒めたと語り継がれている歴史上の人物には新島襄(にいじまじょう)がいるが、松下幸之助も会社設立50周年式典において妻への感謝を述べた。その映像が残っている。
 
2人はいずれも関西出身、幸之助20歳、むめの19歳のとき見合いで出会った。
こちらの夫婦も激動の時代を共に歩んだ夫婦だ。
 
1917年2人は結婚、配線工として働いていた幸之助だったが出来高制だったため収入は不安定。さらに上司との折り合いも悪かった。
幸之助は独立を決意するも、最初に彼が出した案は「お汁粉屋」だった。
今の仕事とは全くなんの関連もない。むめのは猛反対「あなたの夢じゃないんではないか?」。
それを聞いた幸之助は納得、電気に関連する仕事を突き詰めようと考えた。
 
やがて立ち上げた会社は1918年松下電器器具製作所、社員はむめの、彼女の弟とわずかな人数であった。
 
幸之助は苦労に苦労を重ね、妻のむめのも幸之助に心配をかけまいと着物や指輪をこっそりと質に入れるなどして金の工面を続けた。
 
やがて幸之助は「改良アタッチメントプラグ」「2灯用クラスター(2股ソケット)」などを開発、爆発的ヒットをした。
 
会社の売り上げは伸び、社員も増えた。
増えた社員たちの面倒をみたのはむめの。
彼女自ら寮に住んだ若い社員の食事を作り、身の回りの世話もした。
 
さらに「砲弾型電池式ランプ」や「角型ランプ」などヒット商品を次々と生み出していった。
 
だが1929年にアメリカで起こった世界恐慌のあおりをうけ、幸之助の会社も存亡の危機に立たされたが。それでも幸之助は社員の解雇を頑なに拒んだ。働く時間を減らしても給料は全額支給とした。
幸之助の気概を社員も受けつぎ、会社は苦境を乗り越え存続することができた。
 
しかしさらに1941年太平洋戦争が勃発、幸之助の会社は軍需産業への協力を求められた。
それは敗戦後に影響してしまう。
GHQの統治下で幸之助は「公職追放」(戦争に積極的に力を貸したという疑い)されてしまう。
 
諦めかけた幸之助。しかし多くの社員や家族はそれを取り消すように1万5千もの嘆願書を集めそれをGHQに提出。
GHQはそれを認め幸之助は公職追放から除外されたのだった。
 
その後社長に復帰した幸之助は主婦を手作業の家事から解放しようと「生活家電」を製作の主軸とした。
むめのは、幸之助が開発した洗濯機を庭に置き、自らが商品モニターをするなど夫に協力していたとお孫さんは語ってくれた。
 
こうして幸之助の会社「ナショナル電気」は成長を重ねて行ったのだ。
このような背景があって、幸之助は会社設立50周年式典で幸之助は妻・むめのに感謝の言葉を述べたのだ。
「どうも奥さん、長い間ありがとう」
大きな拍手が起こった。
7月29日放送の感想はここをクリック
どちらの夫婦もお互いを信じ、目指すものを必死に支え続けた。
2組とも全く違う背景はあれど「思い合う気持ちの強さ」には差が無かったように見える。
 
ましてや溥傑と浩は文化も全く違う国の人間同士が見合いで初めて会い、それも自分達の意思とは関係のない下で、政治利用とわかっていながらも互いを信じ続けられたのは素晴らしい「信頼力」だと思う。
 
今は情報が沢山ありすぎるからなのかもしれないが、すぐに自分の本当の気持ちを見失ってしまう。情報に左右されてしまう。
本来、人というのは「信じる」純粋な気持ちを持っていて、それは同じ願いを持つ人との間ではどんどん純度を増すものなのかもしれない。
 
今、このコロナ渦では互いを信じ「良い方向に向けようと思い合う」という大切な気持ちが薄くなってしまっているのかもしれない。
最小単位として「家族」特に「夫婦」の間での信頼関係をしっかりすることが、やがては社会で他人同士でも信頼できると思える「信頼力」への土台になっていくのかもしれないと改めて考えさせられた。
<見逃し動画>7月15日放送 
「謎の古代遺物がモノ語る」
 
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7月15日放送の公式あらすじ

エピソード1 縄文時代 土偶のモノ語り
土偶の一風変わった造形は、女性のからだ、特に妊娠した女性をあらわしているという説が有力になっています。一方、縄文の集落では、人々の暮らす家々が囲むようにお墓を置いた形跡が。縄文人の土偶、土器には「いのち」「再生」への意識、願いがあったのでしょうか?
 
エピソード2 弥生時代 銅鐸のモノ語り
何のために作られたのか。どう使われたのか。すべて謎だった「銅鐸」ですが、音を鳴らすもので、量産され多くの集落に同じ銅鐸があったと分かってきました。そして銅鐸表面の様々な「絵」も、意味が次第にひもとかれています。弥生人の銅鐸に込めた祈りは「田」にむすぶ豊かな「実り」――。
 
エピソード3 古墳時代 王のよろいのモノ語り
1500年前、現在の群馬県にある榛名山が噴火。ふもとの村も火山灰に没します。その一角からきわめて珍しい、よろいを着た男性の骨が出土しました。一帯の「王」かもしれないその男性は、なぜよろいを着ていたのか?なぜ榛名山に向かって突っ伏していたのか?よろいが語る神と人の一大ドラマです。
 
<出典>NHK公式

7月15日放送のネタバレはここをクリック
発掘調査は現在も各地で行われている。
 
地中から掘り出される様々な遺物(土器、土偶、銅鐸など)から専門家は太古の時代のことを推測し読み取ろうとしている。
縄文時代の土偶に込められた人々の願い。 
弥生時代に作られた銅鐸に刻まれていたのは「豊穣(ほうじょう)の祈り」だったのだろうか。
火山の近くで見つかった古墳時代の「よろいの男」は、どう生き、どう死んだのか。
 
文字の無い時代に人々の傍らで歴史を見て来た古(いにしえ)の、国宝を含む古代の「遺物」がモノ語る歴史秘話に耳を傾けていく。
 
 
縄文時代
日本列島の歴史の中で実に1万年以上も続いたとされる、途方もなく長い時代が縄文時代。
 
人々の住まいは「竪穴式住居」。木の実を取ったり、動物や魚を捕まえて暮らしていた。
縄文時代を語るもの、それは「土偶・土器」。
 
ハート形土偶、山形の「縄文の女神」、長野「縄文のビーナス」それぞれ異なった特徴をもっている。しかし共通している見解は「女性を現している」というもの。
 
当時のヘアスタイルを土偶から推測、京都橘大学の猪熊先生の監修の元、結髪(けっぱつ)師の南登美子さんに再現してもらった。
当時は木の皮を紐のように使ったりしたのだろうか、結髪師たちが悪戦苦闘の後2時間後完成した髪形は平安時代や飛鳥時代に比べると動きやすそうなもの。
その他にも土偶からは櫛のようなものを髪に飾っているタイプや、メイク、アクセサリーなどの装飾品までも推測される。日常ではなく、何か特別な日に縄文時代の女性たちは華やかな姿をしていたのだろう。
 
さらに土偶は女性の姿だけではなく、その当時の人々が「妊娠・出産」に対してどう考えていたか、そしてかれらの「生死」観についても考えるきっかけを与える。
 
東京都立大学の山田康弘教授はこう推測している。
縄文の人々は土器そのものを女性の身体に見立てていたのではないか、そして赤ちゃんは半分ぐらいが亡くなってしまっていたのではないか(推測値)。
当時の人々は女性の身体から赤ちゃんが生まれてくることが、とても「神秘的」だと考えていたのではないか。
 
また「死生観」については、居平遺跡(いだいらいせき)でお墓の周りに住居があったということが発見された。人々は300年もの間墓地を囲むように住宅を建てて暮らしていたのだ。現代のように、死を遠ざけるのではなく、死者と共に暮らし土偶を作って生活していたのではないか。
おそらく死者の命が母体を経て、再びこの世に戻る「いのちの循環」の思想があったのではないだろうか。そして「再生」を主眼においた祭りが多く行われていたのではないか。
 
土器を母体として考え、そこに死者を入れ身近に埋葬して再生を願う。それが縄文時代の人々の日常だったのかもしれない。
 
 
弥生時代
弥生時代の独特な発掘品は「銅鐸」。通常30センチほどのものが多い。
2400年余り前に現れ600年間程作られたが急に発掘されなくなっている。
稲作が本格的にはじまり生活様式が大きく変わった時期だった。
 
兵庫県の淡路島で2015年4月に資材置き場の砂山から「銅鐸」が7個も発見された。
弥生時代の早い時期に作られた極めて古い型の銅鐸で3年に渡る修復により、その銅鐸が入れ子になっていたり、中から「舌(ぜつ)」が見つかった。
舌は銅鐸を鳴らすための棒で、この「松帆銅鐸」ではは7つの銅鐸全部から舌が見つかった。
 
銅鐸を現代の鋳物師に再現してもらった。
はじめは銅鐸の表面に気泡が出るなどしたものの、石を「鋳型(いがた)」として作っているので1日に10個ほど作成は可能ではないかと思われた。
小さな集落では1つずつ、大きな集落では複数個持っていたとも考えられるだろう。
再現された銅鐸は何本もの紐を使って吊り下げて、中に舌を吊り下げてゆすって鳴らしていたのではなかろうか。
 
さらにもうひとつのヒントとして土器に刻まれた絵がある。
鳥取・米子の角田遺跡の「絵画土器」だ。
その絵には横に渡された棒に、銅鐸が2個吊り下げられている。これを再現して2個を吊り下げてゆすってみると思いのほか大きな音が出る。日本各地で人々はこのようにして銅鐸を鳴らしていたのだろうか。
 
淡路島の銅鐸の時代から200年後の銅鐸がある(神戸・灘 桜が丘銅鐸)。
その銅鐸に「絵」が刻まれているのだ。16の絵が刻まれていて人や動物が描かれている。
そこに描かれた人物はH型の何かを持っているため「機織りの女性」と呼ばれていて、その人の下には「魚」が描かれている。
 
滋賀県立琵琶湖博物館の中島経夫さんの考察では、当時のゴミ捨て場から見つかった大量の魚の骨・鯉の咽頭歯(いんとうし)から推測すると、その鯉は秋に死んでいると考えられるのだ。
米の収穫の時期に人々が沢山の鯉を捕まえて食べていたのではないだろうかということだった。
 
そして絵の人物が手にしているH型のモノは、水門を開け閉めする道具で、田の水を出し入れしている「田堰(たせき)」の一部ではないだろうか。
 
春には田植えの時期に水の上を走るアメンボの絵が、夏はカエルの絵、秋にはトンボ、収穫の時期には田から水を抜いて稲を刈っていたのだろう。そして鯉を捕まえて食べた。
絵の中で人々は魚と躍っている。
当時の水田をめぐる風景が銅鐸に描かれていたのか。そこに刻まれた絵の意味は弥生の人々の「豊穣」の願いだったのかもしれない。
 
 
古墳時代
大陸との交流が進み、日本でも精巧な技術が発達してきていた。
群馬県渋川市「金医東裏遺跡」で完全な形の鎧が発見された。古墳時代の精巧な鎧が発見されたことにより、なんと鎧の役割まで推測されるという。
 
研究室でさらに鎧の細部の発掘を進めると驚くべきことがわかってきた。
鎧の中には人の骨が。鎧を着たままの人骨だ。
 
今から1500年前のある日、群馬県の榛名山(はるなさん)で「火砕流」が発生したと思われる。
鎧の男は火砕流の被害者である確率が高いそうだ。成人女性、幼児、乳児と4人の遺体も近くに埋まっていたという。
周辺にこの4人以外の人骨がないので家族だったのではないだろうか。
 
そして、近くから大勢の人々の「足跡」も見つかっている。
同じ方向に向かって、落ち着いて避難したのではないだろうか。しっかりとした足跡で秩序だった足跡であることから、それは推測されている。
 
何故4人だけが残ったか。しかも男性は鎧をまとっている。
噴火の小康状態の間に4人以外の人々は避難しているのに、なぜなのか。
 
近年、鎧は「武人」だけのものではなく「王」だった人にも所有されていたのではないかということが王の墓から複数発掘された「鎧」からわかった。
 
群馬県立歴史博物館 右島和夫さんの仮説はこうだ。
よろいは実際に着ていたものと、すぐそばからもう1領、別の鎧が発見されたことから鎧の男は2領、貴重な鎧を所持していたことになる。
よって、王と家族が最後に避難をはじめ、王の証の宝物を家族で運び出していた。命の次に大事な宝物を運んでいる途中、大規模な火砕流に襲われた。
 
また発掘に携わった杉山秀宏さんの仮説では、火山との位置関係に注目。
男は山に向かって地に伏したような姿。山に向かって何かしようとしていた最中に被害にあったのではないか。
王は集落にとどまり、宝物を並べ「神を祀って」いたのではないか。
山の怒りを鎮めようと祈りをささげるため伏していたという。
 
しかし明治大学准教授の若狭徹さんは鎧はやはり「戦い」のためだったと考える。
王として山の神、災害に向かっていった、戦いを挑んでいったのではないか、と王の最期を推測する。
 
王が最期の瞬間まで着ていた鎧は、古墳時代の人々の生き方を雄弁に物語るもののひとつなのである。
 
榛名の王が亡くなってから100年後、聖徳太子が活躍した時代に文字が使われるようになった。
大化の改新、都の建設、巨大大仏の建立など1000年以上、様々な事が書き留められてきた。
しかし文字がない時代であっても、当時の遺跡は多くの歴史を物語ってくれている。
7月15日放送の感想はここをクリック
どれも推測ではあっても、それぞれに考察していく材料があってとても楽しいものだ。
 
多くの遺跡が見つかることで、さらにしっかりとした「証拠」となって遺跡の当時の役割や意味のイメージが膨らんでいく。
 
自分ではなかなかここまで踏み込んで推測することはできないけれど、このように番組で多くの人の話をまとめて知ることができるのは大変面白いと思う。
 
細かい事は覚えていなくても記憶の片隅にでもあれば、また別の説が出てきたりもするのだろう。もっと若い頃にこういう番組が見たかったなーと切実に思う。
<見逃し動画>7月8日放送 
「ペスト 最悪のパンデミック」
 
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7月8日放送の公式あらすじ

エピソード1 最悪のパンデミック
14世紀、世界を恐怖のどん底にたたき落とした感染症・ペスト。ヨーロッパでの死者はおよそ3000万人、人口の1/3が消えたといわれています。最悪のパンデミックを引き起こした原因は「3密」「不要不急の移動」――いまや聞き慣れたこの2つだったのです!
 
エピソード2 ペストに立ち向かえ!
ペストはヨーロッパに根を下ろし、おもな都市だけで500回以上の流行を繰り返します。しかし、長く続いたペストとの苦闘の経験から、人々は恐怖の病に立ち向かうすべを身につけていきました。未曽有の危機はいかに克服されたのか?
 
エピソード3 ペスト、日本上陸
ようやくペストの原因をあきらかにし根本的な対策を可能にしたのは、日本の医学者・北里柴三郎でした。北里のペスト菌発見の5年後、1899(明治32)年、ついにペスト日本上陸。北里は感染拡大を防ぐため対策に奔走します。北里、日本のペストとの闘いの記録です。
 
<出典>NHK公式

7月8日放送のネタバレはここをクリック
昨年末から徐々に広がり、現在も世界各地で猛威を振るう新型コロナウイルス。
依然として日本でもワクチン開発などを必死に進めてはいるが有効な手立ては見つかっていない。
実はかつて同様に世界でも史上最悪の感染症ともいわれる「ペスト」という病気が流行った。別名「黒死病」。
14世紀ヨーロッパでは人口の3分の1にあたる3000万人が死亡。
このペストのパンデミックの背景にあったのは、なんと「3密」と「不要不急の移動」。
 
その後も世界各地で感染爆発を繰り返すペストに人類はどう立ち向かっていったのか。
そして19世紀末ペストはついに日本に上陸してしまう。
日本の医師「日本の細菌学の父」とも呼ばれる北里柴三郎の取った手段とは。
新型コロナウイルスとの闘いにつながるヒントを探る。
 
 
人類と感染症の戦い
ペスト。高い致死率で1億人もの命を奪ったと言われている。
有史以来何度も流行を繰り返して来た。
 
最大の被害をもたらしたと言われているのが14世紀のパンデミックである。死者はおよそ3000万人、ヨーロッパの人口のおよそ三分の一が消えたと言われている。
画家ブリューゲルはその光景を「死の勝利」に描いた。
 
このペストの起源と推測される場所に遺構がある。
キルギスのイシク湖周辺に遺構があり14世紀のパンデミック直前の1338~39年の墓石に死因がペストであったと書かれているものがあった。
また近年では、ライシェボで見つかった細菌(LAI009)は14世紀のパンデミックの共通の祖先であることがわかった。
このことから現在ペストは中央アジアから始まったという説が有力である。
 
ペストは、ペスト菌が原因となる感染症だが、ネズミなどのげっ歯類からノミを介し人間へと伝染する。さらに患者の飛沫や体液で人から人へと感染していく。
主な症状はリンパ節の腫れ、重度の肺炎から死に至るのだ。
 
 
このペストが各地に広がって行った要因のひとつには、モンゴル帝国の侵攻によるものがあろうと考えられる。
交通網の整備を行って人の流れが活発になったことが富だけでなく風土病をも運んでしまった。
 
ペストはモンゴルの領域を超えていく。
14世紀半ばクリミア半島のカッファ(ジェノバの植民都市)という都市は海を通じてヨーロッパの主要な都市と繋がっていた。
カッファにモンゴル軍が侵略してきた際、長引く戦いの中、モンゴル軍内部にペストが流行り始めた。
なんとモンゴル軍はペストで死んだ仲間の死体を町へ投げ込んだのだ。
カッファではペストが蔓延しはじめ、海運により病原体やネズミなどを運搬し、ヨーロッパ各地へと広がって行った。
 
病気の原因がわからなかったため、人々は教会へと救いを求め密集し始めてしまった。
今でいう3密だ。
さらには不安から現実逃避を始めてしまい、わざと楽しい事だけを考えるように、人が集まる場所に行き遊興にふけるように薦めるものまで出て来てしまう。これが感染拡大の要因のひとつとなってしまった。
 
次にフランスとイギリスにペストは広がりマルセイユやボルドーにまで広がって行く。
すると人々が次にとった間違った行動はわざわざ「疫病が流行っている場所から遠ざかること」。
移動した人々とともに病原菌は移動、さらに感染を広めていくのだ。
逃げた人々が集まった修道院から48体もの遺体が見つかった。
それは個別の埋葬が間に合わないほどの勢いで人々が死亡していったことを示している。
 
神に祈ってもペストは静まらず、人の心はむしばまれていく。
デマすらも流れ始めた。
ペストはユダヤ人が広めたというものだ。キリスト教の信者ではない、かつ生活が豊かであった妬みも背後にあったようだが200以上のユダヤ人コミュニティが虐殺により壊滅に陥った。
スケープゴートを作り迫害をするのが人間の特性のひとつともいわれている。
大災害が起きた時には何故こんなことが起きたのかを説明をつけたがるのだ
。異質なものを排除することで自分を守ろうとする心理が働くのかもしれない。こうして14世紀には3000万人もの人の命が失われていった。
 
 
科学の進歩
17世紀半ばロンドンでペストが流行すると大学が臨時休校になった。ケンブリッジ大学に在学していたアイザックニュートンはステイホームをしていた。その時に彼が発見したのが「万有引力の法則」だということだ。
 
人間は何度も繰り返される流行の中でペストの戦い方を徐々に身に着けていく。
イタリアのベネツィアは貿易港だったために50回以上もペストが流行を繰り返した。
今も残るペストとの戦いの痕跡がある。
内海にある小さな離島で船を40日間(ペストの潜伏期間)停泊させてからしか上陸させない、また患者の隔離をする世界初の隔離施設を作り治療を施し、回復すると保養所にうつし完治まで滞在させたのだった。
 
カーニバルにも必ず登場する「ペストマスク」。
長いくちばしのような仮面、真っ黒で全身を覆う黒衣。
仮面のくちばし部分には感染防止の効果があると見られたハーブや香料を詰め、杖は患者に触れずに診察する道具。黒衣は防護服なのだ。医療従事者を感染症から保護する方法も見つかっていく。
こうしてペストへの対処法が少しずつ確立されていった。
 
フランスのトゥールーズのように薬剤で町中の消毒を行い、蒸し風呂に患者を入れ新品の服に着替えさせる、洗濯や日光消毒をするという攻めの姿勢を取った町もあった。
 
しかし戦う手段を間違えてしまった町もあった。
17世紀にイギリス中部のイーム村。徹底的に村ごとロックダウンを行ってしまった。それにより村の中でペストが蔓延。
医者もおらず助けも来ない生活物資も手に入らない。
確かに周囲の村には広がらなかったが1年程で4割近い村人が死亡してしまった。
 
1720年を最後にヨーロッパでのパンデミックは終息した。
 
 
原因の究明
日本でも結核やスペインかぜなどが流行した。
現在は治療薬やワクチンが開発された有効な治療法が確立されている。
 
19世紀の終わり、ペストの原因を突き止めたのが北里柴三郎だった。
世界の感染症研究をリードしていた彼は、アジアでペストが流行していたため中心地であった香港を訪れた。
症状が類似している病気から推測し、患者の血液からペスト菌を発見、根本的な対処を取れるようになったのだ。
 
5年後広島県で日本初のペスト患者が発生、大阪や神戸で発生、北里は現地に赴いた。
患者と家族を病院へ隔離、家屋を消毒した。
しかし肝心なネズミの駆除に対する反発が商業の町大阪で起こる。
ネズミを大黒神の使いと信じていたからだ。
 
さらには貧困のため医療費の負担や失業を恐れ感染を隠すことがあった。
感染を拡大させてしまっていたのは「人間の意識」だった。
 
しかし北里はネズミの駆除には1匹当たり5銭でネズミを買い取り、啓もう活動にも力を入れて行った。
ようやく人々の意識がかわりペストを抑えこむことが出来たのは30年後だった。
 
医学が進歩した現代においても2017年マダガスカル島ではペストが大流行し200人近い犠牲者が出た。
そして2020年新型コロナウイルスによるパンデミック。
 
しかしどのウイルスが流行し、どの細菌が流行するかを決めるのは、私たちの社会の在り方である。
どんな感染症が出てくるかというと、私たちの「社会の弱さ」を突くような形で現れてくるのではないか。
人間が自然の一部である限り感染症は決してなくならないだろう。
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医学がかなり発達をしているがウイルスや細菌も同じ地球に生きているものとして考えるとパンデミックすらも「自然淘汰」なのかもしれないと思わされた。
 
それにしてもペストの最初の間違った対策方法が実は未だに少し形を変えつつもされているように思う。
 
不安だから誰かに会いたくなって町に繰り出してしまう。
 
かつて教会に集まった人と変わらないと思うのだが。
 
教育を受けていてもいなくても一定の割合はこういう考えを持つ人が存在してしまうのかもしれない。
 
いくら一部の人間が知識や知恵を持っていても多くの人間がいるのだから「意識を変える」事ができない限りは難しいという今回の話はとても心配だ。
 
ペストが日本から消えたのに30年もかかっているのだ。
 
情報化社会であっても「知ろうとしない」限りは「知らない」ということなのだから。
 
ひょっとしてまだこれから10年くらいコロナと付き合っていかないといけないのかもしれない。
<見逃し動画>7月1日放送 
「スーダラ節が生まれた」
 
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7月1日放送の公式あらすじ

エピソード1 スーダラ前夜
戦争が終わった頃、正統派の歌手をめざしていた20歳の植木等は、いつのまにかコミックバンドの道へ。作曲家・萩原哲晶や作家・青島幸男と出会い、植木の鼻歌をテーマにした曲作りが始まります。どんな歌ができあがったのか?そこには、時代からはぐれた男たちの見た当時の日本の姿がありました。
 
エピソード2 スーダラへの葛藤
ようやく「スーダラ節」の曲が完成。ですが、肝心の植木が歌うことをためらいます。その植木に、父親で僧侶の植木徹誠はスーダラ節は「親鸞の教え」だと語りました。迷いの吹っ切れた植木は本番にのぞみ「神が宿った」といわれたアドリブを炸裂させます。奇跡のコミックソング誕生の舞台ウラ。
 
エピソード3 わかっちゃいるけど やめられない
スーダラ節の植木等は映画でも「無責任男」を演じることに。しかし、それは本来の自分とは正反対のイメージ。またもや悩む植木の転機は、シベリアに抑留され生還後も波乱の人生を送る僧侶を演じたことでした。シリアスな作品と向き合うことで、逆に植木はスーダラ節を歌い続ける決意を固めます。
 
<出典>NHK公式

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日本高度経済成長期。歌ったのは 植木等(うえきひとし)。
「ハナ肇(はじめ)とクレイジーキャッツ」のメンバーで実は正統派歌手志望の男。
高度経済成長に沸く 昭和36年に発表され、その売上は80万枚以上を記録。
 
♪チョイと一杯のつもりで飲んで いつの間にやらハシゴ酒
 
自堕落な生活を送るサラリーマンの姿を風刺している。
 
クラシックのエリートになる道を捨てた音楽家と胸の病気を患いサラリーマン社会に乗り切れなかった放送作家。そして実家の寺を飛び出した若き歌手・植木等。
戦後日本を笑い飛ばした希代のコミックソング「スーダラ節の魅力」とその誕生の裏にあったドラマである。
 
 
スーダラ前夜
植木等は正統派の歌手を目指していた。8000円でギターを購入し生計をたてるためにジャズ演奏に目を付けた。そのジャズ界で植木が出会ったのは生涯の仲間となる萩原哲晶(はぎわらひろあき)だった。
萩原は後に「スーダラ節」の作曲を担う。
彼は音楽界のエリートが集う東京音楽学校出身の実力者だったが時代に翻弄されてきた。
戦時中、萩原は1944年(昭和19年)陸軍戸山学校音楽隊入隊した。彼が子供の頃から好きだった音楽のジャズは「敵性音楽」(てきせいおんがく)に指定されて禁止された。
 
しかし戦後はまさに「ジャズ時代」。萩原は音楽エリートに戻ることなくジャズ界へとのめりこんで行く。
 
その頃、植木にもジャズ界から声がかかっていた。
フランキー堺とシティ・スリッカーズだ。これまでのジャズと違いお玉や フライパンなどありとあらゆるものを楽器として使う奇想天外な音楽だった。
植木はここからコミックソングの世界へと足を踏み入れる。
当時植木はフランキーから「ギターをひかなくていいよ」とも言われていた。植木はギターではなく「鳴り物」を担当していたのだ。
しかし植木の心境は複雑「もう俺もおわりかな」と思っていたようだ。半ばやけくそでマラカスをふっていた植木がなぜか観客にうけ、目ざといジャズマン達は植木の才能に目を付けた。
 
昭和30年伝説のコミックバンド「ハナ肇とクレイジーキャッツ」が誕生する。
植木はボーカル兼ギターとして加入することに。
なかでも植木のとぼけたキャラクターと爆発力のあるギャグは広く知られるようになっていく。
 
敗戦から 10年余り。
日本は 経済成長の波に乗ろうとしていた。
人々が 豊かさの象徴として求めたのは 「テレビ」。
音楽や笑いを日本中に届ける役割を果たした。
クレイジーキャッツはそのテレビの人気者になっていった。
 
昭和34年には 「おとなの漫画」、36年には 「シャボン玉ホリデー」が始まり高視聴率を記録。そこでこの勢いに乗って所属プロダクションの社長 渡辺晋がクレイジーキャッツのための歌を作ろうというアイデアを思いつく。
どのような歌を作るかなかなか決まらない中、社長の渡辺が漏らしたひと言「植木の鼻歌はどうだろう」が流れを変えた。
 
植木は当時の鼻歌についてこう語る。
「僕はね、新しいネクタイをつけたりすると得意になってヒラヒラさせながら、スイスイスーダララッタなんてやってたの」
 
その鼻歌を曲にするのに白羽の矢が立ったのがかつてのジャズ仲間・萩原哲晶。
鼻歌を聞くため植木についてまわった。そして書きとめ作り上げたのがあのメロディ。
 
作詞は青島幸雄。
クレイジーキャッツが出演するテレビ番組の放送作家だった青島は歌詞に自分の実体験を重ね合わせた。
小学生まで軍国少年だった青島は終戦とともに軍国主義を否定された。
 
小学生の時は「軍国主義」、中学生になると「民主主義」と信号みたいに変わった
 
と青島は言う。
これでいいと大人に言われても納得できるはずがない。
胸を患い青春時代を謳歌できなかった青島は安定した職を選んだ同級生たちを横から見て、権力の在り方や人々が信じる常識に強い疑問を持っていた。
こうした独自のサラリーマン像があの歌詞につながってく。
 
大学出てホワイトカラーになり、安定した生活になり、良かったなという人達は、実は組織の中のコマだったり企業の中のポジションに対する不満があってくたびれて、おだを上げる姿を見て青島は彼らの姿を植木等に託してみようと考えたのだ。
しょぼくれたサラリーマンの日常を描くこの曲をスーダラ節と名付けた。
 
 
奇跡のコミックソング 父と子の葛藤
実は植木はそのコミックソングを歌う事を最初拒否していた。
彼の父・植木徹誠は34歳の時 浄土真宗の僧侶となり「部落差別」を受け苦しむ人々に浄土真宗を開いた親鸞の教えでもある 「平等」を説いて回っていた。
 
そして徹誠は日中戦争に赴く若者たちに
 
「戦争というものは集団殺人だ。それに加担させられることになったわけだから(略)必ず生きて帰ってこい(略)。それから、なるべく相手も殺すな」
という言葉を贈ったため思想犯として逮捕されてしまう。
 
小学生の等が父の代わりに檀家でお経を唱えても父が30銭のお布施をもらうところ10銭しかもらえず暮らしは困窮した。
それでも等は他者に尽くそうとする父の信念を肌で感じていた。
 
等が芸能界に入ってからも父の大きな存在は変わらず、徹誠の姿を見て育った等にとって
「スーダラ節」の自堕落で欲にまみれたサラリーマンの姿は到底受け入れられるものではなかったのだ。
 
等は思い余って父に相談した。
すると父は「すばらしい曲だ、親鸞聖人の教えに通ずるものだ。親鸞聖人は90歳まで生きられた。やっちゃいけないことばかりやって生きた。わかっちゃいるけどやめられない人生だった」というのだ。
 
父の言う事を信じるべきか、悩んだ挙句植木は歌った。
葛藤を抱えたままレコーディングに臨む。
 
ナンテイクも繰り返し、仲間にダメ出しをされ、疲れ切った植木が歌った時にようやくOKテイクが出た。
こうして奇跡のコミックソングは誕生し大ヒットとなる。
 
その後は映画の話が次々と舞い込んできた。
サラリーマンが主役のその映画は「ニッポン無責任時代」。
真面目でコツコツなんてそしらぬ顔。
 
植木が演じる 「無責任男」の映画は次々と製作され、青島と萩原のコンビが手がけた曲も大ヒットを連発する。植木の歌声はまさに高度成長日本のBGMだった。
植木は無責任男をきちんと演じきった。
 
1970年代。
オイルショックなどが起こり高度経済成長は終わりを告げる。
萩原はクレイジーキャッツの曲から離れドラマ音楽の道へ。青島もタレントや作家活動政界に進出しそれぞれ活躍の場を移していた。
自らの進む道に苦悩する植木は「無責任男」から脱却しようと模索した。
 
 
日本人へのメッセージ
それを物語るものが今も残されている。
それは短期間で公開が終了し幻の作品と呼ばれていた植木の主演映画 「本日ただいま誕生」。
シベリア抑留を経験した僧侶の実話を元にした映画だった。決して多くの人の目には触れることのなかった映画。
しかしこの挑戦が植木の「スーダラ節」や「無責任男」への意識を変えた。
それは人々が望む「無責任男」のイメージを受け入れ「スーダラ節」を歌い続けるという
決意だった。
 
それから10年。バブルに沸いた日本に「スーダラ節」はリバイバルヒット。
時代を笑い飛ばした。
 
戦後日本に生まれた奇跡のコミックソング 「スーダラ節」。
誰もが弱さを抱えて生きる今日もどこかで流れ続けている。
7月1日放送の感想はここをクリック
植木等さんが「スーダラ節」を歌っていたのは知っていたが、父親の生きる姿を見、自分が演じることになった「いい加減で適当、無責任な人間」との間での苦悩は全く知る由もなかった。
 
植木さんは既に私の中では役者さんのイメージだったし、真面目な人だろうとは思いつつもそんなに深く人生を考えることなど無かったから。
 
悩んで悩んでたどり着いたのは結局「人はそんなに強くないから今を受け入れていこう」というものだった。
 
「無責任」であったら生きるのも楽しかろうな、とわかっていても結局のところは真面目で過労死してしまうほど不器用な日本人の気質。
 
これからも無くなることは無いだろうけれどこの歌で「無責任な男」に憧れ、なんだかんだ笑ってコツコツと毎日を生きていくのだろうなとちょっと切なくなってしまった。
 
ほとんどの人がきっと「こんなはずじゃないんだろうけど」って思っているのだから。
 
「働き方改革」などと言われても何も変わらなかったのに、たまたま現在、新型コロナの影響で「リモートワーク」なども出てきているからこそ、この話はタイムリーだったなと感じてしまった。
<見逃し動画>6月24日放送 
「信長より20年早かった男 最初の「天下人」三好長慶」
 
TVerでは配信されていません
 
6月24日放送の公式あらすじ

エピソード1 戦国の革命児 あらわる!
三好長慶は阿波国(徳島県)の武将の子に生まれました。父が主君・細川晴元に裏切られ非業の最期を遂げると、わずか11歳で三好家当主となります。たびたびの存続の危機も驚きの手段で乗り越え、のち天下を制する下地も築いていく長慶。逆境に打ち勝つ「戦国の革命児」のアイデアとは!?
 
エピソード2 誕生!戦国最初の「天下人」
主君にして父のかたき細川晴元を倒した長慶は、一躍京のある近畿でも随一の実力者に。次なる敵は将軍・足利義輝。この時長慶が選んだ選択肢は前代未聞、将軍を追放しみずから「天下人」になることでした。戦国時代、初めて天下を統べ、あらたな国づくりをこころざしたのは三好長慶だったのです。
 
エピソード3 先駆けの天下人 その栄光と挫折
現代では天皇の代替わりに実施される「改元」。戦国時代は天皇と足利将軍が連携し決めました。しかし年号の弘治から永禄へ改元する際、時の正親町天皇が頼りにしたのは長慶。天下人として絶頂の長慶でしたが、息子を亡くしてからその栄光はかげりはじめ、長慶の名も歴史に埋もれていくことに――。
 
<出典>NHK公式

6月24日放送のネタバレはここをクリック
戦国時代の有名な武将といえば織田信長、豊臣秀吉、徳川家康がすぐに浮かぶが、実は織田信長よりも20年前に「戦に鉄砲を用いた、キリスト教の布教を許可、京の都を中心とした広い地域を平定し安定した世を作り治めた」武将がいた。
彼の名は三好長慶。優秀な武将としてオランダの書物にその名が記され日本国内でも「名の知れた」武将だったのにもかかわらず何故現代ではあまり知られていないのだろうか。織田信長に先駆けて「天下人」となった三好長慶の波乱万丈な生涯を描いていく。
 
 
戦国の革命児あらわる!
三好長慶は父の元長(もとなが)が主君の細川晴元に裏切られたため母と2人父の故郷である阿波の国(徳島県)へ逃れる事となった。父は非業の最後を遂げ幼い長慶は11歳で三好家の当主となる。
 
父の元長は細川晴元に仕える武将の中でも最も有力な武将であったが、有力故の横柄な態度により晴元に疎まれ晴元から軍を差し向けられてしまう。
晴元は農民たちをそそのかし10万という一向一揆に攻められた元長は顕本寺にて重臣たちと共に自害した。
 
長慶たちが身を寄せたのは徳島県藍住町。
長慶は三好家全体の脆弱化ゆえに生き残るための手段として父の仇である細川晴元に仕え忠誠を誓った。
そして長慶は18歳の時にはその実力を認められ、兵庫県西宮市一帯を治める越水城の城主を任された。
 
まず長慶が取り掛かったのは「人材登用」だった。
その地でまだ功績が認められていない長慶に従う国衆(くにしゅう)達はいなかったために長慶は自らさまざまな能力を持つ人材の発掘に努めていった。
その当時に家柄ではなく才能や実力を評価して人を取り立てるのは画期的なことだった。
 
そしてその中の人材に後に側近として活躍することとなる松永久秀を見出した。
久秀は土豪(どごう)であったが持ち前の知恵を武器に大名や朝廷相手の交渉ごとに力を発揮、織田信長にも一目置かれるような武将となる人物である。
 
次に長慶が打った手は「宗教を利用した経済基盤の確立」だった。
「法華宗」(ほっけしゅう)を利用したのである。
法華宗本門流の大本山、尼崎にある本興寺(ほんこうじ)の自治権を認めた。
法華宗の信者には商人が数多く、東南アジアにまで広がる貿易ルートがあった。
 
それ故に中国の絹織物や沖縄の芭蕉布などの布製品をはじめ、最新鋭の武器である「鉄砲」までを大量に手に入れることが可能だったのだ。信長が「長篠の合戦」で鉄砲を使う25年も前の話である。
 
そして忘れてはならないのは3人の弟達を用いてこそなしえた、父・元長の故郷を中心とする「広域支配」である。
実休(じっきゅう・次男)には三好家の本拠地である阿波を、冬康(ふゆやす・三男)には安宅氏へ養子に入り淡路水軍を統率させ、一存(かずまさ・四男)には讃岐の十河景滋(そごうかげしげ)の養子となり十河家の家督を継がせた。
 
こうして長慶は細川晴元に父の恨みをはらす力を蓄えて行った。
チャンスは晴元が摂津国人・池田信正を自害に追いやったことをきっかけに訪れた。長慶は、足利将軍とそれを擁立していた細川晴元と三好政勝らを摂津から追い出し近江の坂本へと追いやった。
 
表立って「自分個人の恨みを晴らす」のではなく、晴元の起こした事件で不信感を抱いた畿内・四国の国衆に対し「細川晴元は国衆の利益を代表しない。国衆の利益を守るのは長慶である」としたのだった。
こうして念願の細川家討伐を果たし実質上三好長慶が政権を握ることとなったのだ。
 
 
現在、三好長慶はなぜ信長よりも知られていないのか
なぜ革命児である長慶が現代の歴史であまり知られていないのか。
それは江戸時代後期・幕末の頃。頼 山陽(らい さんよう)という歴史家・文人である男が源平2氏から徳川氏までの武家盛衰史を書いた外史(がいし)「日本外史」に「戦国時代のような乱世では勝つためには何をしてもよい」と説き織田信長を絶賛。
 
一方、三好長慶は「年老いて病になり、松永久秀に任せきり」と評価しなかった。
 
この「日本外史」は幕末から明治にかけて民間ではもっとも多く読まれた歴史書である。
信長が出てこないと新しい平和な統治された世の中はやってこないという認識を民衆に植え付けてしまったためであったのだ。
 
 
誕生!戦国最初の「天下人」
三好の天下になり黙っている足利将軍と細川らではなかった。
将軍義輝と晴元は暗殺を企み刺客を放ちまずは長慶を狙い失敗、だが長慶の妻の父親は暗殺した。
しかしながら長慶はそんな足利義輝を許し、さらには京に迎えることにした。
 
長慶はこれ以上の争いは避けようと考えたのであろう。
父が使えていた義維ではなく義輝を支持するなど丸く収まるように気を遣った。
それなのに半年後に義輝は京の霊山城に立て籠もり長慶へ反旗を翻そうという姿勢を見せた。
 
「足利将軍こそ天下人」と考えていた長慶もさすがに限界を感じ義輝への攻撃を開始する。
自分の城に自ら火を放ち近江へと逃げて行った義輝を見て長慶は自分が国をおさめる決心をし、足利将軍を立てることは諦め「義輝に従う者の領地は没収する」と幕府を否定する考えをあらわにした。
長慶は現在の大阪・高槻市に城を建て領地を支配、実質的に「天下人」となったのだった。
 
長慶の心の広さを現す逸話が残っている。
長慶の領地内で田に水を引くことについて度々争いが起こっていたが、長慶は民それぞれの意見を公平に聞き取り長慶自らが判決を下した。
 
また高槻市では棺に十字架の書かれたキリシタンの遺骨が発掘されている。
織田信長より前にキリスト教の布教を許可し、当時宣教師たちがもたらした医術などの先進的な技術を望んだ証拠である。
 
この時代でいうところの「天下」とは日本全土ではなく「京を中心とした畿内周辺」の土地であったことはルイスフロイスの書いた「日本史」にも乗っていることではある。
 
 
先駆けの天下人 その栄光と挫折
長慶が天下人だったと言われるのには、まだ説がある。
戦国時代の「改元」は天皇と武家の代表である将軍が決定していた。将軍が儀式の費用を用意、そして公家が年号を考え天皇が 
それを発表するというシステムになっていた、
この当時の改元は「天皇の代替わり」に限らず災害や飢饉など世の中の不幸な状況を変えるため行われていた。
 
1558年「永禄の改元」が行われた時に天皇であった「正親町天皇」がパートナーに選んだのは三好長慶だった。これは長慶が 武家の代表者として認められていた証拠だと言われている。
 
さらに大阪・堺市にある 南宗寺にある長慶の銅像には「桐」の紋がついている。
これは天皇が 足利将軍や信長・秀吉など「世を治める実力者」に使用を許可したもので、長慶は40歳の時に天皇からこの紋を使用してよいと許可を貰っているのだ。
 
こうして誰もが認める「天下人」となった長慶だったが、やがて次々と悲劇に見舞われることとなる。
 
まず頼りにしていた弟2人が相次いで死亡。
永禄4年(1561年)弟の十河一存が急死、永禄5年(1562年)に三好実休が高政に敗れて戦死した。
続いて文武共にすぐれ将来の武将と期待をかけられていた一人息子の義興(よしおき)が
永禄6年(1563年)22歳で早世してしまった。
そのため長慶は十河一存の息子である義継(よしつぐ)を養子に迎えた。義継の母親が公家・九条家の出身であり「家柄も天下人にふさわしいものに」との考えからだろうとも言われている。
 
さらに御家安泰のためとはいえ唯一弟の中で生き残っていた冬康(ふゆやす)が逆心を抱いていると思い込み自害へと追い込んでしまう。
 
松永久秀の讒言(ざんげん・陥れるためのうそ)により自害へと追い込んでしまったという説や、長慶自身が相次ぐ親族や周囲の人物らの死で心身が異常を来たして病になり正しい思慮を失っていたという説もあるが確かな事は不明である。
 
しかし冬康を自害に追い込んだ後、久秀の讒言(一説であるが)を知って後悔し病がさらに重くなってしまったということも言われている。
 
永禄7年(1564年)飯盛山城で病死、家督を継いだ義継の後見人となった松永久秀と三好三人衆の内紛により三好家は衰退、後に義継も織田信長に滅ぼされてしまった。
 
大阪・高槻市の芥川山上には城跡がある。
長慶の死の4年後この城に織田信長が現れ10日余り滞在した。
京を目指し天下統一を目指していた信長は次の天下を支配するのは自分達であるとPRするためにわざわざこの城を訪れたのではないだろうか。それほど信長達にとって長慶の存在は大きかったのだろう。
 
現在も大阪・高槻市にはかつて三好長慶がこの地方の水争いをおさめたことに感謝し、長慶を祀る祠が芥川山の山頂に祀られている。台風の被害をうけた後も地元の人たちは日々復興に勤めている。
これは今も三好長慶が地元で誇れる人物だということを現している。
6月24日放送の感想はここをクリック
織田信長よりも先んじて「天下人」となっていた三好長慶が、「日本外史」が民衆に広まった事によって評価されなかったことが、現代、彼があまり知られない歴史上の人物となってしまった大きな要因になったのはショックだった。
 
どちらかと言えば信長よりも性格は穏やかで優れた武将だっただろうにと思うと余計切ない。彼の不遇な人生を鑑みても・・・。
 
それでも長慶の生涯をもう一度検証でき正当に評価してくれる歴史学者がいてこそ私たちは歴史を多くの方向から知ることができるのだと思う。ありがたい。
<見逃し動画>6月17日放送 
「ノブナガ万華鏡 英雄とその時代」
 
TVerでは配信されていません
 
6月17日放送の公式あらすじ

今もドラマやゲームに数多く登場する織田信長。そうしたものの中の信長像には、戦国当時の太田牛一やルイス・フロイスといった信長を間近で見た人々の記述が色濃く反映されています。それらの文章から、はるかのちの戦後に「改革者」というイメージがかたちづくられ、現代「信長」像となったのです。
 
後世作られたイメージをできるだけ排し、信長に直接関わる史料のみで「織田信長」という人物をとらえ直すこころみが、学問的に始まっています。研究から浮び上がってきたのは、革命児とは別の「マジメ」な気質。これまでとは異なる信長像が、今誕生しようとしています。
 
従来のイメージが変わりつつある戦国武将は、織田信長だけではありません。斎藤道三や三好長慶、そして明智光秀などもこれまでの人物像を一変する発見や研究が出てきています。その結果、乱世におけるそれぞれの「野望」の内容も深みを増し・・・・・・戦国時代はますます私たちを魅了してやみません。
 
<出典>NHK公式

6月17日放送のネタバレはここをクリック
幾度となくドラマの主人公となってきた戦国時代の最も有名と言っても過言ではない武将、織田信長。近年になり彼のイメージが徐々に変わりつつある。
かつては「戦の天才、乱世を終わらせた革命児、武力で他をねじ伏せる魔王のような征服者」という人物像として描かれてきた信長。
しかし今季の大河ドラマ「麒麟が来る!」では染谷将太さんが演じる信長は「孤独を感じ悲しむ人間味のある人物」なのではないかと、今までとは全く違った人物像を感じさせる。
 
近年の研究では信長の新たなる人物像の側面に光が当てられ始めている。
「天下布武」のスローガンの持つ本来の意味や、戦後に作り上げられてきた先入観を排除し史実からいつの時代にも人を惹きつけてやまない戦国武将・織田信長の描かれ方の変遷を考察していく。
また信長へのイメージの変化に伴い同じ時代を生きた武将である斎藤道三・三好長慶・明智光秀の光の当たることが少なかった功績をも探っていく。
 
 
強烈な英雄・信長のイメージの形成
「天下統一」を掲げ戦国時代の先駆けとして過去最も多く大河ドラマやヒストリアで取り上げられてきた織田信長。
そして発売から人気がある有名なシュミレーションゲーム「信長の野望」で創造と破壊を併せ持つキャラクターとして描かれ続ける織田信長。
 
彼のこの強烈なイメージは元々彼の家臣であった太田牛一(おおたぎゅういち)により書かれた信長の一代記「信長公記(しんちょうこうき)」が元となっている。
牛一は信長が20歳の頃より側に仕え、彼の行動を詳しく記録しており晩年の江戸時代はじめにまとめあげたのだ。
 
良く知られるエピソードとしては、
1575年の武田勝頼との「長篠の戦」においては日本で初めて鉄砲を戦術的・組織的に使った戦いで大きな勝利をおさめたこと。
1554年の今川義元との合戦では苦戦を強いられ自ら鉄砲を持ち最前線で指揮をとり勝利をおさめたものの、戦死した部下を悼む人情に厚い武将であったこと。
 
中でも最も有名といっても良いであろう「本能寺の変」では、かの有名な
「是非に及ばず」
という言葉を残し敵に背を向ける事無く死を受け入れた堂々たる最期。
ただ本能寺の変では牛一は実際に信長の死に立ち会ってはおらず信長の侍女だった人物をを探し出し最期を証言してもらい書きとったということだ。
 
またもうひとり信長についての記述を残していた人物がいる。
ポルトガルの宣教師ルイス・フロイスにより記された「日本史」の中には
 
「彼はよき理性と明晰な判断力を有し 神および仏の一切の礼拝迷信的慣習の軽蔑者であった」
 
と書かれておりキリスト教布教の壁になる仏教勢力に相対する信長を「革命児」として記録していたのだ。
 
こうして「信長公記」とルイス・フロイスの「日本史」が一般的になったことが現在の信長のイメージの土台となったと推測される。
 
 
庶民へと広がり積み重なる信長のイメージ
18世紀に作られた人形浄瑠璃の演目「絵本大功記」には、織田信長をモデルにした武将が登場し家臣を激しく叱責する場面がある。
またおなじみの 「鳴かぬなら殺してしまえホトトギス」もこの時代に生まれた。
 
そして明治の世になると天皇を中心とした新たな国づくりが行われるようになり、信長は「天皇を支えた」という一面が高く評価された。
 
また高度経済成長期に入ると今度は信長の「改革者」としてのイメージが時代に合致していき信長の「革命」への姿勢を良しとする人々の気持ちとシンクロしてより高めていくこととなった。
 
18世紀から高度経済成長期に至るまで長期に渡り、その時代ごとに「こうありたい」と願う庶民の気持ちのモデルともなったのが織田信長だったのだ。
 
 
信長からの手紙に現れる性格
近年若い研究者たちにより織田信長に対する新たなアプローチが開始されている。
人の手によって生まれたイメージや先入観をできるだけ排し、手紙や書状など本人に直接関わる史料を頼りに実像に迫る試みである。
 
信長と将軍・足利義昭の関係については、従来は信長が天下統一を果たすため義昭を利用したと考えられてきたのだが、実際に信長から義昭に送られた書状には「命令があればいつでもお供する覚悟です」という恭しい(うやうやしい)言葉が記されているのだ。将軍のサポートをしよう、尽くしていこうという姿勢が見えてくるのだ。
 
 
天下布武のスローガン
信長は「天下布武」(てんかふぶ)のキャッチフレーズで天下統一を推し進めていったと広く知られている。
この「天下布武」の解釈は「武力をもって この信長が天下統一を果たす。この印判により広く世に知らしめる」とあくまでも自分が成し遂げる、自己を押し通すイメージを持たれがちであった。
 
ところが宣教師ルイス・フロイスの「日本史」を読み解くと「五畿内の領主が『天下の領主』と呼ばれる」とされているのだ。
つまり 「天下」とは現代のような「日本全国」を示しているのではなく 「五畿内」という京都周辺の限られた地域を指していたというのである。
 
そして もう一つの手がかりは「天下静謐(せいしつ)」という言葉。
これは将軍が天下すなわち五畿内を穏やかに治めているという意味なのである。
 
「信長の武力で将軍・義昭を京の都に戻し、荒れ果てた都も元の姿に戻す」
そのことをこの印判にて世に知らしめん。
 
信長の理想は 天下が将軍によって穏やかに治まっている状態。それを信長が武力で支える。これを天下布武だというのだ。
 
最初に書かれた「信長自身の天下取りの野望」ではなく「将軍を盛り立て自分はあくまでもサポートを務めて戦国の世を平穏な世とすることを望む」となり、かつてのイメージとかけ離れた信長の「真面目」な側面も伺えてくるのだ。
 
 
比叡山焼き討ちの誤解
信長の「残忍な征服者」というイメージを決定づけた「比叡山焼き討ち」。
僧侶だけでなく女性や子供まで含む3, 000人を殺したとも言われている。
 
ところが信長と直接関わる史料で見ていくと
信長はすぐには攻撃せず交渉から始めており、浅井・朝倉勢が逃げ込んだ延暦寺に
「私たちに協力してくれるならばかつての延暦寺の領地を回復させましょう」
「もしも このまま浅井・朝倉の味方をするならば焼き討ちせざるを得ません」
と書状を送っている。
ところが延暦寺からの返事はなく「天下静謐(せいしつ)」を成し遂げるため1年程も待った後に比叡山焼き討ちが行われたのだ。信長にとっても苦肉の策で決して怒りに任せ行ったわけではなかったのだろう。
 
 
信長像はこれからも進化する
このように信長を「結果」からだけではなく「本人の人となり」を加味して考えると大きな違いが生まれてくる。現在の考察も後の世に何らかの形で変わっていくのかもしれないので「決定事項」ではなく今後も少しずつ進化を続けていくのだろう。
 
 
信長と同じ時代の武将たちの業績
戦や策略で地位を築き上げたイメージの強い斎藤道三ではあるが、実は城づくりだけではなく町づくりにも進んだ考え方を取り入れ「城下町」を築き「楽市楽座」の先駆けとも思える仕組みを作り経済の発展についても深い考えを持っていた。
道三の居城「岐阜城」で発見された石垣の強固さは城づくりの巧みさを現し、城下町に武士だけではなく多くの庶民を住まわせることにより経済を発展させようともしていたのだ。
これこそ戦国時代の「楽市楽座」の先駆けと思われ道三が戦だけではなく「国造り」にも心血を注いでいたことが読み取れる。
 
シュミレーションゲーム「信長の野望」では斎藤道三は初期には「坊主頭の豪快」な武士の姿だったのだが2017年度版では「知性派武将」として改まった姿で描かれている。
 
また三好長慶は以前は地味なイメージしかなく「丸顔で頼りない」人物として描かれていたが現在は「信長の前の天下人」として注目され「戦国の革命児」と位置づけられるよう凛とした武将の姿に変化している。
彼は信長がまだ尾張の一大名の頃には京を中心とした天下を治めていたからだ。
さらに先見の明もあり長篠の合戦の25年も前から戦で鉄砲を使っていたという記録もありキリスト教も信長よりも先に既に布教を許しており長慶こそ「革命児」だったのだ。
 
 
変化する明智光秀像
このように歴史研究の対象が広がっていくことによって歴史上の人物の姿は少しずつ変化してきているのだ。
明智光秀は前半生、どこで生きて何をしていたか謎の多い人物であるが、近年熊本の旧家で「針薬方(しんやくほう)」という古文書が見つかっている。
「針薬方」は当時の医術書なのだがそこには明智光秀が滋賀県にあった田中城の籠城の時に医術を口伝したと書かれている。
若き日の光秀には医者だったという側面があったのかもしれない。
「本能寺の変の首謀者」とし主君へ反旗を翻した裏切りもののように描かれている光秀だがまだまだわかっていない事実も多いのだ。
 
 
人間味のある歴史に残る武将たち
数多くの武将たちが活躍した戦国時代。
誰かひとりだけがヒーローとして歴史を作り上げた単純なものではなく、それぞれの人が生きて来た過程が新しい史実が発見される度に深く掘り下げられていく。
後に面白おかしく練り上げられてしまった架空の人が実際に我々と同じく生きていた人間として多面性があったことがこれからも解明されていくのだろう。
6月17日放送の感想はここをクリック
私達が教科書で習い漫画で読みドラマで知った歴史がどんどん変化してきている。その中に生きた人達の生きざまも次々と書き換えられていく。まるで2次元で見ていたものが3次元になっていくように。
 
これからも「古い思い込みが作り上げた歴史」が研究によってリニューアルされ、それによりさらに深く武将をはじめ過去に生きて来た人々の気持ちを探っていけるようになるのはとても楽しい事だと思う。
 
それがまたこれから先の未来にドラマとなり小説になり、ゲームにまでなって表現されていくのも歴史好きにはたまらない醍醐味でもあるだろう。
<見逃し動画>6月3日放送 
「戦国最強のナンバー2天下を動かした男松永久秀」
 
TVerでは配信されていません
 
6月3日放送の公式あらすじ

大河ドラマ「麒麟がくる」で注目を集める松永久秀。将軍の殺害に関わり、東大寺まで焼き打ちした「極悪人」ともいわれてきた人物だ。しかし近年、主君を天下人に押し上げた、忠義の武将だったことが判明しつつある。「麒麟がくる」で久秀を演じる吉田鋼太郎さんが、その魅力を熱くトーク。さらに、新たに見つかった久秀の肖像画が登場。素顔は意外に男前!?戦国最強のナンバー2、松永久秀。天下を動かした男のリアルな姿に迫る。
 
<出典>NHK公式

6月3日放送のネタバレはここをクリック
主君を支えた戦国最強ナンバー2とは誰か。その答えとして、豊臣秀吉に仕えた黒田官兵衛や竹中半兵衛を挙げる人も少なくないだろう。しかし実はもう一人のすごいナンバー2がいた。大河ドラマ「麒麟がくる」で吉田鋼太郎が演じる松永久秀である。
松永久秀といえば三好長慶の家臣だが、将軍を殺害し東大寺を焼き打ちした非道の人物として描かれるのがこれまでの常だった。しかしそれは本当に事実なのか。今回はそれを探る。
 
 
三好長慶の有能な家臣
松永久秀またの名を松永弾正は現在の大阪府高槻市の土豪の出身である。その低い身分から四国阿波を本拠地とする戦国武将・三好長慶の家臣に昇り詰めることが出来たのはどうしてだろうか。それは久秀の知力であった。
 
三好長慶は1953年細川晴元・足利義輝を京より追放し、畿内一円8カ国を支配下に収め、天下人となった。その最大の功労者が久秀であった。
ではその手腕とはどういうものだったのか。
 
 
松永久秀の功績
石清水八幡宮に残る資料によると、久秀が裁判を取り仕切っていたことが分かる。当時、将軍家の判決に不満を持つものが多く、天下人の三好家に裁判のやりなおしを懇願する者が跡を絶たなかった。久秀の下す判決は将軍をも納得させるもので、三好長慶こそ天下人と喧伝する結果となった。
最後に残る強敵は、東大寺・興福寺などの大和の宗教勢力である。そのため大和は「難治の国」と呼ばれていた。
 
久秀はその東大寺・興福寺の目の前に多聞城を築き、その荘厳な姿で東大寺・興福寺を圧倒する。これからは武家が大和を支配すると宣言したのである。
久秀の新たな肖像画が見つかり、そこには50代から60代ころの久秀の姿が描かれている。それを見ると武将というより有能な官僚のようだ。江戸時代に描かれた久秀の絵と比べるとまるで別人だ。
 
 
運命の転機
1564年、多聞城の久秀のもとに使者が訪れる。主君三好長慶の死を知らせるものだった。43歳で死去した長慶に世継ぎはいなかった。そこで久秀は長慶の甥・三好義継(17)を立て、やがて将軍に就かせる策略を練る。義継の母は九条家の出身であり、将軍となるにふさわしい家柄だった。
ところが義継率いる三好軍が将軍義輝を殺害してしまう。久秀にとってそれは寝耳に水のことだった。
 
追い詰められた久秀は知恵を絞る。そして考え出したことは、義輝の弟・義昭を味方に引き入れ、勢力挽回を図ることだった。さらに、「武家の御小袖」と呼ばれる衣装を三好家に引き渡すよう画策し、それに成功する。その衣装は初代将軍足利尊氏も身につけたもので、将軍の象徴とされてきた。それを引き継ぐことで、義継を将軍の位に大きく一歩近づけたのである。
 
 
三好家の内紛
ところが新たな問題が発生する。お家騒動である。
義継・久秀に以前から反感を抱いていた「三好三人衆」と呼ばれる三好家の同族が兵を挙げ、阿波三好家もまたそれに援軍を送る事態となる。1566年久秀は堺に追放され、三人衆は畿内をほぼ制圧するが、翌年久秀は義継を擁して巻き返す。東大寺が炎上したのもこの時である。
その際、久秀が考えた策は織田信長と手を結ぶことだった。
 
久秀は、足利義昭を奉じて上洛するので懇意になりたいと書状を送ってきた信長の力を借りて、三好三人衆を阿波に蹴散らすことに成功する。ところがこのことがのちの大きな火種を残すこととなるのである。
 
 
織田信長の台頭
1568年10月信長は義昭を将軍に擁して入京する。これはしかし三好義継を将軍に就かせることをもくろむ久秀にとって大問題であった。信長に抗うのか、従うのか、久秀は選択を迫られる。信長と結ぶことを選択した久秀は先手を打つ。将軍家に伝わる茶器・付藻茄子(つくもなす)を信長に献上したのである。これは茶器の熱心なコレクターであった信長の心を掴み、信長と久秀は強固な同盟を結ぶに至る。
 
 
久秀の誤算
だが、戦国の魔王・信長は久秀の構想におとなしく収まるような人物ではなかった。1571年信長は、三好家の同盟だった比叡山延暦寺を焼き打ちにする。ここに至って、久秀の主君義継は信長を討つ決意をする。だがこのときは久秀にはまだ勝算があった。それは上洛をうかがう武田信玄と同盟関係を結ぶことだった。信玄をあてにして、義継は現・大阪府東大阪市の若江城で、久秀は多聞城で挙兵する。ところがここに久秀の思ってもみなかった誤算が生じる。信玄が上洛の途上で病死したのだ。
1573年11月、若江城は陥落し、義継は自害する。そして久秀は信長から降服せよと迫られる。思案する久秀。ここは知恵の見せ所である。結局久秀が選んだ道は信長の軍門に降ることだった。まずは生き延びること、久秀はそう考えた。久秀の胸に燃えていたのは、三好家再興の思いである。義継の甥の長治が阿波にいる。しばらくは信長の下で機会を窺い、隙を見て再起を図る考えだった。
 
しかし1577年、信長は多聞城の取り壊しを命じ、久秀は追放され、長年のライバルであった筒井順慶が代わって大和の支配者となる。順慶は東大寺などの宗教勢力とも近い旧勢力であった。
 
大和を武家の支配下に置いて新たな時代を築こうとした久秀にとって、この復古主義的な信長の姿勢は今まで自分がやってきたことの全面否定に映った。
 
 
久秀の転落
1577年8月久秀はついに信長を討つために信貴山城にて信長討伐の兵を挙げる。このとき果たして勝算はあったのだろうか。
実は久秀には巧妙な計算があった。それは広範囲な信長包囲網を形成することである。
このとき足利義昭は毛利輝元の下にいた。越後には上杉謙信がいる。そこで久秀は、毛利・上杉に織田討伐を呼びかける。
1577年9月、手取川の戦いで謙信と信長が相まみえる。結果は上杉軍の大勝利であった。ところが、ここでも久秀にとって大きな誤算が生じる。謙信が兵を引き返したのである。
 
信貴山城は数万の織田軍に囲まれ、1577年10月10日、信貴山城は炎上し、その中で久秀は自害して果てる。
信長軍の中で燃え崩れる信貴山を見つめていた武将がいた。明智光秀である。
奇しくも久秀と光秀は、ともにライバルに敗北するという点で境遇を一にしている。久秀は筒井順慶に、光秀は豊臣秀吉に。
 
 
久秀の人物像の歪曲
久秀の命を奪った信長も、1582年本能寺の変の炎の中で落命する。そして1603年江戸幕府が成立する。
太平の世になって書かれた書物の中で久秀は非道の人物として描かれ、以来それが定説になる。
 
しかし近年は歪められた久秀像を見直す動きが活発化している。信貴山では地元民が中心にゆかりの場所を繞るツアーが活発に行われている。茶人としての久秀も再評価されつつある。信貴山城跡にはふたつの茶室があったとされ、久秀愛用の茶臼の破片も発見されている。
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歴史は常に勝者の視点で書かれる。明智光秀も、定説に反して、地元の人々からは名君として敬愛されていると聞く。
 
松永久秀についても有能な武将であることがよく分かった。久秀の生涯は誤算に次ぐ誤算だったとも言える。いくら知恵を働かせても、何もかも思った通り事が運ぶとは限らない。結果として不幸な人生だったように見えるが、そのときそのときに懸命に考え、最善と信じた方向に突き進んだ久秀は実は充実していたのではないか。
 
現代に多い、自分は何も努力せずに人のせいにばかりしている人間に比べれば、はるかに立派な人物だと感じた。
<見逃し動画>5月27日放送 
「富山の売薬り知恵とまごころの商売道」
 
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5月27日放送の公式あらすじ

顧客の家々に薬を置かせてもらい、定期的に訪ねては使った分だけ代金を受け取る「富山の薬売り」。江戸時代、富山藩の人々が始めた独創的なビジネスだ。もともと富山は、自然や立地などが「製薬」に向いた土地。しかし「富山の薬売り」が現在も続く商売となりえたイチバンの理由は「商いへの情熱」! 知恵とまごころを尽くし、顧客のためなら日本中を駆け回るという熱い思いで、ついには時代をも動かした、薬売りたちの感動秘話。
 
<出典>NHK公式

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歴史秘話ヒストリア「富山の薬売り 知恵とまごころの商売道」の内容ネタバレ

明治維新の原動力となった薩摩藩。その躍進の背後には意外な人々の活躍があった。富山の薬売りである。
富山の薬売りと聞けば、ある年代から上の者にとっては、懐かしい、思い出に残る存在ではないだろうか。紙風船をもらって嬉しかった人もいるかもしれない。
その腰の低い富山の薬売りが薩摩藩を支えたとはどういうことだろうか。専門家のなかには、薩摩と富山の取引は近代を生み出す力となったとまで言う人もいる。知恵とまごころで人々を癒し、日本の歴史を変えた富山の薬売り。その300年を振り返る。
 
 
富山と薬を結びつけた功労者
富山藩主・前田正甫(まさとし)は悩みを深めていた。
原因は第一に、立山連峰の雪解水による洪水である。第二に、山から吹き下ろす強風によって城下町はしばしば大火に見舞われた。第三に冬の豪雪である。
あいつぐ自然災害による被害で藩の財政は行き詰まっていた。しかし正甫の収集癖が意外なところで役立つ。
 
正甫は、古銭の蒐集家であっただけでなく、長年腹痛を患ったせいで、薬にも精通していた。特に愛用していたのは反魂丹(はんごんたん)といって、25種類の生薬を原料に作られた万能薬であった。正甫は富山の財政の再建するため、薬の生産を奨励することを思いつく。
 
 
薬に適した条件
富山には薬の製造に適した条件がそろっていた。その1。立山連峰から湧き出す大量の水である。水は、薬の材料である薬種を水洗いするのに欠かせない。また大量の水は防火にも役立った。その2。その水がしかも良質の水だったことである。今でも名水百選のうち8カ所が富山に属している。新鮮な水は製薬の第一条件なのである。その3。富山は日本海を介した中国との交易が盛んだった。その結果漢方薬の豊富な知識の蓄えがあったのである。
 
こうして前田正甫はこれまで藩を苦しめていた自然条件を逆に利用し、ビンチをチャンスに変えようとしたのである。
 
 
富山の薬を一躍有名にした事件
富山の薬を全国にとどろかせることになる有名な逸話がある。「江戸城腹痛事件」である。
ある日、ある大名が城中で烈しい腹痛に見舞われた。このときたまたま登城した前田正甫がそれを聞きつけ、富山の妙薬・反魂丹を与えた。飲んだ大名はやがて全快し、それを知った他の大名たちがこぞって反魂丹を求めたという。
 
 
富山の薬売りの知恵
しかしながら、今日のように薬といえば富山という地位を得るには薬売りの絶えざる工夫と努力が必要だった。。
まず、藩を挙げて薬作りを行うため、「反魂丹役所」という薬専門の役所を作り、製薬・売薬を公認制にした。これによって品質が統一され、薬売りが全国展開する基礎となった。そして薬売りは地域ごとに「仲間組」を結成し、値段と情報を共有することに努めた。
 
ところが、それでも富山の薬の売上は思ったほど伸びなかった。その原因は薬はまだまだ高級品だったため、値段が高かったことにあった。どうしたものかと薬売りは知恵を絞る。そのときヒントを与えてくれたのは再び立山連峰だった。
 
どういうことかというと、霊山立山は修験道の聖地である。そこには全国から修験道者が集まっては各地へ散っていく。散った先で立山信仰の護符を買ってもらい収入を得るのだが、そのやり方にヒントを得たのである。彼等は護符を売るのではなく、渡すだけでそのときは代金を受け取らず、次回来るときまでに護符の御利益を感じてもらえたらお礼をもらうというやりかたをしていた。これを真似て始めたのが置き薬商法である。まずは薬を使ってもらい、使った分だけ後払いしてもらうという「先用後利(せんようこうり)」というコンセプトを考案したのである。こうして、江戸時代の中頃には東北から九州まで販路が拡大していった。
 
 
新たな難題
ところがここでまた難題が持ち上がった。徳川吉宗が行った享保の改革によって、各藩とも特産品の開発と財政の健全化をもとめられた。すると各藩は領内の産業を保護することに力を入れるようになり、よその藩の商人を絞め出す動きに出たのである。差留(さしどめ)といって、今日の営業停止処分である。富山の薬売りも18の藩で差留を喰らい、薬を補充できない&集金できないという深刻な悩みを抱えることとなった。
 
 
徹底的な顧客サービス
そこで富山の薬売りが取り組んだのが徹底的な顧客サービスである。例えば、薬を補充しに行った際のおまけとして、市川團十郎など流行の歌舞伎役者の色刷りの版画をプレゼントしたり、歌舞伎役者の物真似をしてみたり、農家を訪れた際には富山で品種改良した種もみをプレゼントしたりした。
「懸場帳」という、現在で言えば顧客データベースを作り、お客の好みを把握し、どこにどれだけもっていくか戦略を練り、効率よく商売を行ったのである。
 
 
とんでもない注文
こうして富山の薬売りは全国に販路を拡大し、幕末には仲間組が22組あったという。薩摩組もその一つであった。その薩摩組に属する金盛五兵衛という薬売りが、幕末の薩摩藩主・島津久光から太刀を拝領している。久光は一介の薬売りになぜそこまでしたのだろうか。薬売りと薩摩藩との強固なつながりはどのようにしてできたのだろうか。
 
そのきっかけは薩摩藩から富山の薬売りに寄せられたとんでもない注文だった。
薩摩藩は、一つには火山性の土地が米作りに適さず経済力が乏しかったこと、さらには島津家から将軍家に嫁いだことで莫大な婚礼費用の出費が必要だったことなどが災いして、財政が破綻していた。そこで領内の産業を保護するために頻繁に差留を行ったのである。富山の薬売りも例外ではなかった。何とかしようと考えた彼等は、藩の重臣に働きかける。すると昆布を献上せよと言う。
 
それはこういうわけだった。薩摩藩が財政を再建するには中国との交易が不可欠だった。その時代中国(清)への最大の輸出品は利尻で採れる昆布だったのである。ところが、昆布の輸出は幕府しか行うことが許されない禁制品で、薩摩といえども手を出すことがなかなか出来なかった。そこで幕府に知られることなく昆布を都合するよう富山の薬売りに命じたのである。富山は蝦夷と大坂の海運の中継地点である。薩摩にそれに目を付けたのだ。
 
しかしそれが幕府の目に触れると罪に問われる。そこで考えだされたのが、富山の薬売りが薩摩から500両(現在の6000億円相当)借りたことにし、それを昆布で返済するという取引だった。
この取引に応じることで薬売りは差留を回避し、薩摩藩内で売薬活動を続けることが出来た。一方、薩摩藩は昆布によって財政を再建し、ひいては最強の藩となったのである。
 
 
まごころと信頼
その後も薩摩と薬売りの関係は続いた。1862年薩摩藩が京へ乗り込んだ際、久光は富山の薬売りを何人か同行させている。それは薩摩藩士の看病をさせるためだけではない。薬売りが自由に屋敷に出入りできることを利用して、何と隠密として使っていたのだ。さらに富山の薬売りは独自のネットワークを駆使することによっても薩摩の情報収集に大いに貢献した。こうした功績が、久光をして金盛五兵衛に太刀を贈らせたのである。
 
 
先用後利の精神
今も日本中に薬を届ける富山の薬売り。その精神は<お客様第一><先用後利>の精神である。田村隼人さん(20)も薬売りとしてまだ2年目だが、その精神を受け継いでいる一人である。田村さんが今最も心がけていることは、話をよく聞き、お客が何を求められているか知ることだそうだ。固い信頼のもとお客様に尽くす薬売りの精神は今もなお健在である。

5月27日放送の感想はここをクリック
私も幼少時、家に置き薬があったし、富山から「薬屋さん」が訪れたのを覚えている。その後いつのまにか私の地域には来なくなったので、「富山の薬屋さん」はすっかりすたれたものと思い込んでいた。ところがどっこい、今でも82歳で現役の薬売りの方が活躍されている映像を見て驚いた。
 
また、20歳の若い薬売りが頑張っている姿も、微笑ましく、また将来が楽しみだと思った。
 
最近はクリック一つで商品が届く時代となってしまったが、300年続くこのまごころの感じられる商法は何としても守らねばならない。
<見逃し動画>5月20日放送 
「福沢諭吉センセイのすすめ」
 
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5月20日放送の公式あらすじ

1万円札の顔として有名な福沢諭吉。「学問のすすめ」といった著作などを通じて、日本人の「心」を大きく変えた。下級武士の家に生まれ、猛勉強で西洋の知識を身につけた福沢。欧米を旅する中で、男女差別や身分制度のない社会を見聞。発したメッセージは「一身独立して一国独立す」。学問を身につけて個人が自立し社会も変わるという信念は、その後、隣国・朝鮮にも向けられた。近代日本人の心のもちようをつくった偉人に迫る。
 
<出典>NHK公式

5月20日放送のネタバレはここをクリック
慶應義塾大学の創設者にして『学問のすすめ』の著者としても知られる福沢諭吉。一万円札の肖像の人物としても国民生活にすっかり溶け込んである。『学問のすすめ』の中で彼は「天は人の上に人を造らず 人の下に人を造らず」と述べながら、一方では「脱亜論」という過激なタイトルの文章を発表し、中国・朝鮮という「悪友」との縁を絶つことを提唱している。福沢は単なる西洋かぶれだったのか。今回は、知られざる『学問のすすめ』の奥深い世界と「脱亜論」にこめられた福沢の真のメッセージを解き明かす。
 
 
福沢諭吉の生い立ち
福沢は1835(天保5)年に生まれ、18歳のときに黒船来航、33歳のときに明治維新という日本史の大事件を青年期に迎えた。その彼が21世紀の一万円札の肖像になっている。一体何を彼は日本にもたらしたのだろうか。
福沢は大分中津の下級武士の家に生まれた。中津藩には厳しい身分差別があり、たとえ雨が降っていても「上等士族に対して下駄を脱いで路傍に平服」しなければならなかったという。
そんな身分制度に我慢ならなかった福沢は未来を切り拓くために、小さな土蔵に閉じこもり書物を読みふけった。特に打ち込んだのが武士の教養として必須の漢学だった。
 
ところが1853年に黒船が来航し、西洋の知識を学ぶべきだという気分が高まる。弱冠20歳で福沢は中津を飛び出し、大坂「適塾」に入門する。緒方洪庵のもとで猛勉強すること3年。その後江戸に上り、アメリカへの幕府使節団への同行を許される。
 
 
福沢がアメリカで驚いたもの
一アメリカの土を踏んだ福沢が最も驚いたのは、日本とアメリカにおける社会のあり方の違いだった。
福沢はアメリカの初代大統領ジョージ・ワシントンの子孫が今どうしているかを色んな人に尋ねてみたが、誰もちゃんと答えられない。アメリカでは将軍に匹敵する大統領の子孫が無名の庶民になっていることに福沢は衝撃を受ける。
さらに驚いたのはアメリカ人家庭を訪問したときだった。夫が食事を運び、妻は座って客の相手をしている。男尊女卑も身分制度もないことに福沢は衝撃を受けたのである。
帰国する船中で福沢は仲間達にアメリカの少女とのツーショット写真を見せた。福沢は帯刀せず椅子に座り、少女がその椅子にもたれている。日本では考えられないことである。福沢は早速新しい思想を吸収し、自らの行動を修正し始めていたのだ。
 
 
「実学」とは
福沢の訪米から8年後、日本は明治時代になっていた。アメリカで広めた知見をもとに、新しい時代の日本人のあるべき姿、心の持ち様を示したのが『学問のすすめ』である。1872(明治5)年の初版刊行以来、累計部数340万部というこの驚異的ベストセラーは、人は生まれつき平等であるが、<賢人か愚人か>は<学問をするかしないか>で決まるという励ましの言葉で始まっている。
ここで、学問とは具体的に何を指すのだろうか。福沢がすすめる学問とは、漢学でも蘭学でもなく、「実学」であった。その「実学」の文字の横には小さな文字で「サイエンス」とルビが振られている。つまり実学とは合理的に物事を考える学問のことであり、地理学・物理学・歴史学・経済学のことだった。
 
 
「官吏も憚るに足らず」
現・千葉県成田市長沼にかつて面積300haの広さの「長沼」という沼があった。長沼は古来、隣接する長沼村の所有とされ、そこで採れる魚は重要な収入源だった。ところが明治維新直後の混乱期に乗じて、周辺の村も長沼に目をつけるようになり漁業権の争いが始まった。結局、長沼は国有地に召し上げられ、長沼村の暮らしは一転、困窮することとなった。当時村の役員だった小川武平という人物がたまたま『学問のすすめ』を買い求める。読み進むと、「一身の自由を妨げんとする者あらば政府の官吏も憚るに足らず」と書いてある。武平は感動し、「福沢先生なら」との思いを胸に、東京の福沢に会いに行く。1874(明治7)年12月のことである。
 
武平は福沢にこれまでのことを打ち明けた。話を聞き終えた福沢は力になることを約束する。そして「沼地拝借願」という嘆願書案を作成するなどして支援を始めた。その結果、1876年7月、長沼村に優先的な利用が認められる。武平たちは内職をして貯めたお金を福沢に謝礼として差し出す。すると福沢は受け取らないばかりか逆に500円という大金を寄付するのだった。そして「学問がないからこういうことになった。これからは何より教育が必要」と説き、福沢の指導で1881年長沼小学校が開校する。千葉では2番目の学校だった。その後も福沢は、沼の完全返還を求めて運動する村人を支援。村中一致すれば志願は成就すると励まし続けた。そしてついに、1900年3月長沼は再び長沼村の所有となった。その後村では記念碑を建て、毎年集うようになった。
 
 
「脱亜論」
福沢の残した言葉に「一身独立して一国独立す」というものがある。国民一人ひとりが学問をし独立しなければ、長沼村がそうであったように、日本という国も独立を守り通すことはできない。実はこれこそが「脱亜論」の真意でもあった。
 
日本に遅れて開国した朝鮮で、日本に倣おうとする開化派と、清国に頼っていればいいとする守旧派との対立が先鋭化する。開化派に関心を寄せていた福沢は、1881(明治14)年、朝鮮留学生2名を慶應義塾に受け入れる。自宅に寝泊まりさせ親身に世話をしたという。続いて1883(明治16)年には朝鮮留学生60名が来日した。
 
ところが、1884(明治17)年12月、開化派が朝鮮でクーデターを起こす。甲申事変である。これに清国の軍隊が介入する。結局クーデターは失敗に終わり、開化派のほとんどが殺害されてしまう。その中にはかつて福沢が世話をした留学生も数多くいた。3ヶ月後の1885(明治18)年3月16日、福沢は自ら創刊した新聞「時事新報」に「脱亜論」という社説を載せる。その論旨は「日本が考えるべきは脱亜の二文字のみ」「中国と朝鮮は自国の古い習慣にしがみついている」「この二国に付き合っていては日本の独立も危うい」「今後は西洋の文明国と行動を共にしていくしかない」というものであった。
 
 
脱亜論への批判
戦後この「脱亜論」が取り上げられ、この論が日本のアジア侵略を後押ししたと批判する者がいた。しかし発表当時はほとんど話題にならず、日中戦争時にもほとんど知られていなかったのが実情だった。この文章が政治的影響を与えたというのは事実無根であり、戦後という歴史的文脈とセンセーショナルなタイトルによる曲解である。では「脱亜論」の真意はどこにあったのか。
 
それは当時の国際情勢を見れば明らかとなる。その頃、清国は甲申事変は日本の陰謀によるものと世界に盛んにアピールしていた。そこで欧米諸国は日本に対し反感を持つに至った。それに対抗しようとしたのが「脱亜論」であり、日本のダメージをできるだけ小さくしようというのが福沢の意図だったのである。
 
 
「脱亜」とは逆の行動
福沢は決してアジア諸国を遅れた国として蔑視し、西洋の仲間入りをしたのではない。
 
開化派に金玉均(キム・オッキュン)という人物がいて、甲申事変の後日本に亡命していた。その金を福沢はかくまい、生活費や活動費を援助していた。1894(明治27)年、日清戦争が勃発し、翌年日本の勝利に終わると、朝鮮から清国の勢力を一掃された。そしてその年の5月にはおよそ200人の朝鮮留学生が来日している。慶應義塾大学に受け入れた福沢は彼らを三田演説館に連れて行き、「一身独立して一国独立す」の精神を説いた。日本で今やっているように朝鮮においてもそれは実現できるはずだと励ましたのである。慶應で学び帰国した留学生たちは、官僚や実業家になり、祖国の発展に尽くした。
 
 
『学問のすすめ』に込められた思い
20歳で中津を飛び出した福沢。しかし故郷のことを決して忘れたわけではない。『学問のすすめ』の序文にはこう記されている。「この本はなぜ学問をしなければならないかを故郷・中津の友人達に示すために書いたものである」と。
 
毎年2月には中津で「諭吉かるた大会」が盛大に開催される。市内の小学生たちが参加し、食い入るようにカルタを見つめる。カルタという遊びを通して彼らが学んでいるのは「独立自尊――人は自分をおとしめることなく、気品と誇りを持って生きるべきである。世界中の人々は等しく同じ人間であるのだから、交際に当たっては決して差別があってはならない。他国人を蔑視するは独立自尊の旨に反するものである」という福沢の精神である。
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「天は人の上に人を造らず 人の下に人を造らず」という言葉だけで分かったつもりになり、『学問のすすめ』という書物が、今となっては当たり前のことしか書かれていない古い書物にすぎないと見くびっていた誤りに気付かされた。
 
また、福沢諭吉が長沼の農民を支援したり、朝鮮人留学生を受け入れたりしたことは、彼が単なるインテリゲンチャではなく、自分の身を削って人のためになろうとする実践家・教育家であったことを示していると思った。
 
福沢諭吉の書き残したものを真剣に読んでみたいと思った。
<見逃し動画>5月13日放送 
「正倉院宝物 守られた奇跡の輝き」
 
TVerでは配信されていません
 
5月13日放送の公式あらすじ

古代、都があった奈良で1300年守られてきた「正倉院宝物」。その起こりは、聖武天皇が遺した品を、光明皇后が東大寺の大仏にささげたこと。古代の宝物がこれほど美しい状態で伝えられる例は世界でも極めて珍しい。今回8K高精細映像での撮影が許可された。そこから見えてきたのは、戦災など幾多の困難に見舞われながら、宝物を守り継いだ人々の営みと、いにしえと変わらぬ宝物の輝きだ。正倉院宝物と日本人の奇跡の物語。
 
<出典>NHK公式

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日本だけが有する、世界に誇るべき宝。それが正倉院宝物である。しかしその輝きが1300年もの間守られてきたという奇跡の背後には何世紀にもわたる奇跡の積み重ねがあったのだ。近年の研究によって、これまでシルクロードを通って海外から日本にもたらされたものと考えられた宝物9000点の9割以上が、実は国産のものであるということが分かってきた。そうした最新の研究調査の成果をお伝えする。
 
正倉院の代表的宝物
まずは正倉院を代表する宝物を2つ紹介する。
1つめは平螺鈿背八角鏡(へいらでんはいはっかくきょう)である。直径27cm。鏡の裏面全体が銀色に輝く螺鈿で覆われている。それは東南アジア産のヤコウ貝を切り抜いたもの。花の赤い部分は琥珀。ミャンマーの奥地で採れる宝石である。さらに周囲には1mmほどに砕かれたトルコ石がちりばめられている。それらを使って鏡は唐で作られ日本へもたらされた。
 
2つめは白瑠璃碗(はくるりのわん)。高さ9cm、ササン朝ペルシャで作られたガラスの器である。光を当てると六角形の模様の中に小さな無数の輝きが浮き上がる仕掛けだ。それは器の反対側の模様が映り込んだもので、表の模様をレンズのように活用したササン王朝の技術の非常な高さを知ることができる。
 
 
実はほとんどが国産品だった
このように正倉院宝物といえば、エキセントリックなイメージが強い。しかし宮内庁の正倉院事務所の調査が進むにつれて、9000点のうち9割以上が日本で作られたものであることが最近分かってきた。たとえば粉地花形方几(ふんじはながたほうき)。その顔料を分析したところ、塩化鉛という白色を出すための日本特有の顔料だということが判明した。国産品だったのである。
 
螺鈿が全体に張られた豪華な琵琶である楓蘇芳染螺鈿槽琵琶(かえですおうぞめらでんのそうのびわ))も国産品の一つである。描かれている絵の完成度の高さから、唐で作られたものだと考えられてきたが、使われている顔料から、やはり国産であることを示す塩化鉛が検出された。
 
捧げ物を載せる色鮮やかな台である粉地彩絵八角机(ふんじさいえのはっかくき)もそうだ。材料である木の調査から国産品であると分かった。
 
 
天皇が作らせた宝物
これらの宝物を作らせた人物こそ聖武天皇である。聖武天皇と言えば東大寺の大仏を建立したことでも有名である。しかし当時、天皇の権力基盤は決して盤石なものではなかった。聖武天皇は、天皇の権威を強化するために、唐からもたらせた宝物をまねて日本で作らせ、それを臣下に分け与えたのだ。
 
60年以上にわたる平城宮跡での発掘調査の結果、国産の刀子の帯執金具(おぼとりかなぐ)が発見されている。これは唐からもたらされた犀角把白銀葛形鞘珠玉荘刀子(さいかくのつかしろがねかずらがたのさやしゅぎょくかざりのとうす)の鞘の金具と酷似している。
 
高さ140cm、6枚一組の屏風である鳥毛立女屏風(とりげりつじょのびょうぶ)には唐の女性が描かれている。流れるような筆遣いは高い技量を物語る。ところが、材料などの調査から、これも国産であることが分かっている。この屏風の裏側を見ると、天皇の行事などを司る中務省という文字が書かれている。その中務省の管轄する「内匠寮(たくみりょう)」という役所でこれらの国産品は作られたと考えられている。
 
『続日本紀』によれば、内匠寮は728年聖武天皇によって中務省内に設置された。内匠の「内」は天皇家を指し、「匠」は優れた職人を意味する。すなわち天皇のための職人組織である。内匠寮とは、それまで平城宮において木工・紙・金属・絵の専門集団によって別々の工房に別れていたのを、一カ所に統合するために設置された。複合的な美術品を作るために、各分野のエリート工人を一カ所に集め、有機的に連携するようにしたのである。
 
光明皇后の屋敷の近くで「(内匠寮に)鏡を磨くために油を50cc送る」という意味の言葉が書かれた木簡が発見されている。当時の鏡は金属で錆びやすかった。そこで錆びた鏡を磨くために当時は油が使われていた。試しに、現代の和鏡職人に、当時よく使われたごま油と金属を磨くためのベンガラを使って、錆びた鏡を実際に磨いてもらったところ、磨くこと1時間で鏡は輝きを取り戻した。
 
 
光明皇后の悲しみ
こうして聖武天皇が作らせた宝物はどのようにして今日まで伝えられたのか。
 
そのことが分かる宝物が、正倉院宝物のなかでも最高傑作とされる螺鈿紫檀五絃琵琶(らでんしたんのごげんびわ)である。唐で作られたもので、中央には椰子の木と駱駝に乗って琵琶を弾くペルシャ人らしき人物が螺鈿で表されている。裏面はさらに豪華で、花で埋め尽くされている。花の赤い部分は琥珀。赤や黄色の絵の具で模様が細かく描かれている。
 
よく見ると琵琶の表に傷がいくつかついている。聖武天皇が実際にその琵琶を弾いた跡だと考えられている。つまり、その宝物は、聖武天皇の死後、光明皇后が亡き夫の在りし日の姿を思い出すよすがとなったのである。光明皇后の深い悲しみが、夫の作らせた宝物を遺品として残すことを決意させ、その目録を盧舎那仏に捧げさせたのである。これが正倉院を生むきっかけとなった。
 
 
身を削って守る
宝物は正倉院に厳重に保管されることとなったが、決して安泰とはいえなかった。鎌倉時代には雷が倉を直撃している。火災の跡は今も残るほどだ。源平合戦では東大寺の大仏殿が炎上し、正倉院のすぐ目の前にまで火の手はせまった。だが奇跡的に火の勢いは衰えた。
 
正倉院の危機を宝物が自らを犠牲にして守ったこともあった。その証が黃塾香(おうじゅくこう)である。ベトナムやラオスでしか採れない貴重な香木で、またの名を「蘭奢待(らんじゃたい)」と言い、五味を持つ天下の名香とされた。
 
この蘭奢待に足利義政や織田信長が切り取った跡が残されている。香木は貴族や武士の嗜みであった香道で用いられたため、蘭奢待の切香を持つことは高価な茶器を所有するに等しい名誉だったのである。
 
こうして、宝物をほしがった権力者たちにその一部を切り取って与えることで黃塾香は正倉院宝物全体を守ってきたのだ。切り取られた跡は実に50カ所もあるという。
 
 
正倉院の秘密
正倉院宝物の素晴らしさの一つは1300年前の輝きを今にとどめていることである。ではなぜ輝きは保たれているのか。
 
理由は宝物を収める倉である。宝物は総檜造りの正倉院正倉の中で、一点ずつ杉の箱の中に収められてきた。この倉と箱の二重構造が宝物を守ってきたのである。
 
一年間湿度を計測したところ、外気は季節によって大きく変化するものの倉の中では変化の幅がはるかに小さく、箱の中にいたってはほぼ一定に保たれていることが分かった。倉と箱と二つの木の壁が外からの湿気を遮り湿度を安定させていたのである。これは漆が割れるのを防ぐ上で大きな効果があった。
 
 
奇跡のリレー
とはいえ、誕生から1000年も経つとどうしても痛みが目立つようになる。宝物を救ったのは数世代、数世紀にわたる奇跡のリレーだった。
 
鳥毛立女屏風を高精細映像で拡大するとわずかに鳥の羽が確認できる。これはかつては女性の服装全体に張られていたものだという。しかしそのほとんどが今は剥がれ落ちている。
 
痛んでいる場所はほかにもある。一番左の屏風。女性の服装が白色なのに対し女性の顔は茶色がかっている。実はその色がオリジナルと考えられている。白の部分は江戸時代に描き直されたものだ。そしてさらにその200年後の明治時代に、大規模な宝物修理が行われている。
 
たとえば、螺鈿紫檀五絃琵琶。豪華絢爛なこの琵琶も年月とともに破損が目立っていた。江戸時代の末に描かれた『丹鶴図譜』にこの琵琶が描かれているが、螺鈿で失われている箇所が見られる。それが明治時代に修復されたのだ。他の花弁に比べやや明るくなっていることから、その部分だけ新しいことが分かる。
 
数世紀にわたるリレーによって復活した宝物もある。平螺鈿背円鏡である。表は輝いているが、裏返してみるとなんと継ぎはぎだらけである。これは鎌倉時代に盗賊が盗み出し、売りさばくために割った跡である。破片は取り戻されたものの、修復のしようが無いまま、割れた状態で保存された。それが600年の歳月を経て、明治時代の修理で鏡が元に戻ったのである。
 
 
保存の営みは今も
宝物を未来に繋ぐ営みは今も続けられている。宮内庁の正倉院事務所では、劣化を防ぐためにも、素材の特定作業に力を入れている。たとえば、紫檀木画槽琵琶(したんもくがのそうのびわ)に描かれている絵の絵の具の素材の分析が行われた。その結果、元の色が分かり、日本画の専門家によって絵の復元が行われた。2年後、水色の川、緑色の丘など製作当初の色彩がよみがえった。川の真ん中からはオリジナルの絵では分からなかった水取りが3羽浮かび上がった。
5月13日放送の感想はここをクリック
まさに正倉院の宝物はこれからも守り抜いていかなければならない日本の宝だと思った。
 
元々それが聖武天皇の私有物であったにしても、その9割以上が日本人の工人によって作られたものであり、光明皇后の悲しみを慰める品として遺品とされ、その後1300年の間、代々大切に保管され、修復され、守られたものである以上、これは日本人の宝物であり、国の宝として大切にしていかねばならないと強く思った。
<見逃し動画>4月22日放送 
「弘前城 北のお城の400年」
 
TVerでは配信されていません
 
4月22日放送の公式あらすじ

桜の名所としても知られる青森県の弘前(ひろさき)城。戦国~江戸時代の築城当時の状態を、ほぼそのまま今に伝える貴重な城だ。現在、天守をまるごと移動する「曳屋(ひきや)」修理が進む中、秘められた構造や「堅固な城」としての側面が明らかになってきた。その手がかりは「イカ」!? さらに現在の「桜の城」誕生のきっかけとなったサムライたちの奮闘のドラマも。北の名城の、当時の国際情勢にもつながる壮大な秘話を紹介。
 
<出典>NHK公式

4月22日放送のネタバレはここをクリック
実は青森弘前城は春の桜並木が美しいだけではなく「守りの城」としても非常に秀でた城だった。天守を含めた9棟もの建造物が現存している城郭は大変貴重で、国指定史跡となっている。
 
「難攻不落」として有名な戦国時代から江戸時代に建てられた織田・豊臣・徳川の城の建城技術に加え、再建時に更に練り上げられ進化した技術をも取り入れ、東北で唯一当時のまま現存している弘前城の天守台の知られざる特長が近年の発掘調査により明らかとなった。
 
弘前城はその「強固な守り」でいったい「何から」日本を守ろうとしていたのか、また4000本もの美しい桜は誰がどんな思いをもって植えられたのかを紐解いていく。
 
 
弘前城の堅い守り
弘前城天守は約400年前、1611年に津軽為信(つがるためのぶ)と息子・信枚(のぶひら)によって建てられ五重の屋根を持つ豪奢な造りであったが、1627年に落雷により焼失。
二代目天守は江戸時代終わりの1810年にようやく再建された。
 
弘前城の守りは非常に強固で本丸を囲む何重もの堀が設けられ、さらに「馬出し」と呼ばれる場所も天守の手前に作られていた。これは戦国時代から受け継がれる城郭の特徴でもある。
また西側には自然の崖や河を利用した数キロにも及ぶ守りが施されていた。
唯一の弱点と見られる南側には多くの寺により通称「禅林街」を配置し防衛ラインを用意、有事の際には兵を置く「出城」としていた。さらに禅林街には「桝形」と「土塁」までも用意し徹底的に守りを固めていた事実に驚かされる。
 
 
堅固な弘前城が築かれた訳
徳川幕府の頃、津軽地方にはアイヌ(蝦夷)民族が多く住んでおり、幕府の兵により北へと追い詰められたアイヌ民族が蜂起し闘いが何度も起こっていた。
徳川幕府のブレインの天海が「弘前(津軽)は蝦夷(アイヌ)を抑える要の地なり」と言っていたように津軽家は東側の防御を任されておりそれが津軽に住む者達の誇りでもあった。
出来たばかりの徳川幕府にとっては西日本の勢力がまず大きな脅威であったため、幕府にとって邪魔になるものは全て退けたい、天下を安定させるために北はしっかりと守らせたいという事情から弘前城はここまでの守りに徹した城となっていたのである。
 
 
弘前城天守の再建までの苦労
現在、弘前城では石垣の修理が行われている。石垣再建のために二代目天守台の「曳屋(ひきや)」が行われた。曳屋とは「天守を解体せずそのまま横に移動される」と言う手法で
それにより1810年に再建された当時の特殊技術が明らかとなったのだ。
 
1629年の落雷により焼失した初段の天守の再建がなかなか叶わず200年の後にようやく幕府からの許可が下りた。
許可が下りた理由はこうである。
 
ロシアが国の専売品として多くの利益を得られるクロテンやラッコの「毛皮」を獲るためにカムチャッカ半島を南下してきていた。
また1806年9月にははるか北の海で実際にロシアの武力攻撃があり日本は惨敗。当時の日本の持つ武器では到底及ばないほどの兵器・兵力の差を見せつけられた。次いで日本列島をぐるりと回り、弘前にまでロシアの船がやってきていた事実が幕府へと報告されていたのだった。
 
この事実があったため、実際には岩木山や白神山地があって海までは見渡せないものの幕府の「危機意識」をあおり上手く天守台の再建までこぎつけたのだ。
 
また弘前藩側でも蝦夷地(現在の北海道)の警備を任され派遣された藩士が寒さで8割が死亡してしまうような過酷な状況だった。
そんな中で弘前藩の心の支えとなるようなものが必要だったという理由もあった。
天守台が弘前の人々の目に触れることにより心をひとつに北の地を守っているというプライドを持ち続けるための策でもあったのだ。
 
 
二代目天守再建に見られた創意工夫
天守を人々の目から良く見える場所に再建する際に石垣の一部の地盤の弱さという問題が
出て来てしまった。その箇所にはどうしても水が溜まり何度築いても石垣が崩れてしまう。
その克服に最新の技術が用いられているのが此度の平成の大修理の際に発見されたのだ。
 
それは「イカ型角石(すみいし)」だった。(これは仮称である。)
天守を支える2本の柱である「側柱(がわばしら)」と「入側柱(いりがわばしら)」の礎石が別々の地盤に乗っている場合、緩い地盤では2本の柱には徐々に高さにずれが生じてしまう。
 
だがイカ型角石を用い2本の大切な柱を同じ礎石に配置する事でずれを生じさせないという工夫がされていたのだ。
さらには礎石同士をつなぐ鉛で作られた「チキリ」という名の金具までもが使われていた。石どうしを繋ぎあわせて石の地盤に揺れや外れを生じさせないという技術であった。
この技術を用いて天守の四隅を固め天守台石垣を作ることがようやく可能になった。
 
 
明治維新以降の弘前城に桜を植えた男
明治維新により廃藩置県が行われた。
当時は城には松が植えられることが一般的で桜を植えてある城はほとんどなかった。
弘前城から津軽家が退いた後、人々の誇りであったはずの城は荒れてしまい、せいぜい軍の宿泊所に使われる程度。調度品なども全く管理されずにいた。石垣なども蛇の住処とまで称されるほどであった。
昔の弘前城の栄えある姿を取り戻そうと元藩士の菊池楯衛(きくちたてえ)、内山覚弥(うちやまかくや)は弘前城に桜を植えることを思いつく。
菊池が私財を投げうち購入し植えた1000本の桜は「桜は弘前城にはふさわしくない、軽く見える」との考えを持つ藩士たちにより折られ抜かれ無残な姿にされてしまう。 
だが転機がやってきた。
日清戦争や日露戦争の戦没者の死を悼む「慰霊」の木として桜を植えたのだ。すると今度は反対する者はおらず、菊池達は次々に植樹をしていった。
 
現在も古木として1本の大きな桜の木が残っている。菊池が植えた樹齢138年の桜で日本で最も古いソメイヨシノの木である。
弘前の人々の手入れにより命を長らえ毎年見事な花を咲かせ続けている。菊池が最初に植えた苗木の中で無事に残った1本だ。
菊池らが逆境にも負けずに植え続けた桜の美しい花が今も弘前の春を彩っているのだ。
 
近年、大正時代(1918年)にはじまった「弘前さくらまつり」の映像が見つかったが、当時から人々の「城を愛する」心は絶えることなく受け継がれている。
4月22日放送の感想はここをクリック
守りの強固な城と聞くと加藤清正の立てた熊本城を思い浮かべるのだが、ロシアやアイヌ民族からの力に対抗するため戦国時代から受け継がれた技術と当時の再建技術としては最高のものを用いて常に「守り」を固めた城だったのは今回この番組を見てはじめて知った。弘前の人々の我慢強さや堅実さを象徴するような城である。
 
また見事な桜も誰がどんな思いで植えたのか全く考えもしなかったのだが、地元の藩士達の城と国を想う強い意志で植えられ、それを子孫の方が誇りに思い、現在もその心ごと地域の人たちに受け継がれているのを知ると桜を見る時には今までとは違った見方ができるようになりそうだ。美しい並木道にはそれぞれ植えた人の何等かの想いがあるのだ。

歴史秘話ヒストリアの内容

公式サイト

歴史上の人物や事件などにおける今まで知られていなかった部分にスポットを当てて紹介し、歴史人物の心境や決断などが歴史の秘話として紹介している番組。
 
<出典>NHK公式

<各回の内容>

2020年1月8日 あらためて知りたい!明智光秀
2020年1月15日 前畑がんばれ 誕生!女性初の金メダル
2020年1月22日 われら忍者 甲賀にあり 忍び込め!ヒトの心
2020年1月29日 信長を導いた戦国革命児 斎藤道三 非情の哲学
2020年2月5日 サムライとフランス軍人 幕末ラストミッション
2020年2月12日 ニッポン鉄物語”奇跡の金属”が列島を変えた
2020年2月19日 法隆寺 1400年の秘密
2020年2月25日 歴史ニュース2019〜20日本史新発見ランキング
2020年3月4日 薬師寺千三百年の祈り 国宝東塔全面解体
2020年3月11日 隠された震災昭和東南海地震
2020年4月1日 謎の茶碗(ちゃわん)はなにを語る
2020年4月8日 激闘!中国革命に賭けた日本人孫文と梅屋庄吉
2020年4月15日 楠木正成 巨大な敵に勝つ方法
2020年4月22日 弘前城 北のお城の400年
2020年5月13日 正倉院宝物守られた奇跡の輝き
2020年5月20日 福沢諭吉センセイのすすめ
2020年5月27日 富山の売薬り知恵とまごころの商売道
2020年6月3日 戦国最強のナンバー2天下を動かした男松永久秀

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歴史秘話ヒストリアの感想

30代男性

私は歴史が大好きなので毎回とても楽しみに拝見させていただいております。また、民放のように過剰な演出もなく無駄がなくまとめられているところが好感が持てるところです。番組の中で皆が知っているような概説的な部分と、意外性を紹介する部分、最後に最新の研究から判明したことというような構成で、改めてその歴史や人物について再確認をさせてくれるという事に加えて、知らなかった情報や最新の情報を伝える事でさらに知識欲を与えてくれます。これは、一般視聴者の方に歴史分野の生涯学習の興味を与える一番良い切り口のように思えますので、自分が講演などを行う際にも番組の構成は参考にさせて頂いているところです。
 私が特に面白かったのはナショナルでおなじみの松下幸之助を取り上げた放送回でした。ナショナルという会社を大きくして世界に通用するパナソニックブランドを作り上げた経営者というイメージでいたのですが、決して彼ひとりの努力だけではなく家族の支えがあってこそなしえた事であるという部分がとても興味深かったです。
歴史とは必ずしも江戸時代より昔の人物の話ではなく、現代の人にも苦労の歴史があるのです。そんな現代社会を作り上げた人物を取り上げて、自分が知らなかった新たな歴史を紹介していただいたこの回が自分のお気に入りです。

50代男性

以前、徳川家康の息子たちの回がありました。徳川家康は有名ですが、彼の息子のことはあまり知りません。天下人の影に隠れた父の思いがありました。商売をしてる家だと跡取りに頭を悩まされてしまいます。父の思いは息子たちに期待していますが、期待を裏切るのが子供だと思います。自分の思うように行かないのが本音で、どうにもなりません。ずっと地位を継続することはできないので、後継者探しに必死です。長男の信康はわがままに育ってしまい縦横無尽に生きています。とても後継者にはできません。こうなると次男に期待しますが、なぜか養子に出されてばかりで可哀想な生き方をしていました。素質はあったと思いますが、跡取りにはなれませんでした。三男の秀忠には、跡取りにさせるしかありません。しかしながら、おっとりした性格で争いを好まない息子でした。自覚がないことが災いして、何をしても失敗続きです。徳川家康を悩ませていたのは、天下統一ではなく自分達の息子だったことが判明しました。三男の秀忠はおおらかな性格ですが、厳しさを兼ね備えた人でもあります。立派に成長した秀忠が後継者になり安心したのか、徳川家康は息を引取りました。天下人でもある家康は、ひとりの父親でもあります。

50代女性

最近見た「富山の薬売り」の回が大変印象に残っております。と申しますのは、富山の薬売りってよく耳にしますが、実際会ったことはないためどんな人たちで、どのようなことをしているのか、はたまた本当に存在するのか、というくらい私にとっては不思議で曖昧な存在だったからです。例えは悪いですが、ガマの油売りといったような怪しげなイメージでした。そのため「歴史秘話ヒストリア」のテーマとなるくらい歴史があって興味深い存在であることに驚きました。そのためいつもは近代がテーマの時は見ない事が多い当番組を見ることしたのです。実際視聴して、今回の内容はポンと手を打ちたくなるほどの驚きと興味深さとインパクトがありました。商人たちが江戸時代から活躍していたこと、それも富山周辺だけではなく北海道から南九州まで手広い商売をしていたこと、富山の薬売りを育てる専門学校のようなものまであったこと、北海道で採れる昆布が南の沖縄で大量に消費されてきた理由は富山の薬売り商人たちが仲介していたこと、などアクティブに活躍していたことを知り、果ては幕末の薩摩藩との関係を紹介されるに至っては凄い人たちだったんだなあ、と大変感銘を受けました。富山の置き薬って使った分だけ後払いして補給するシステムのようですが、今途上国で行われているマイクロビジネスに通じるものがありますよね。江戸時代からそれを行っていたなんてすごいと思います。番組のラストは現在活躍する若手「富山の薬売り」さんの紹介でしたが、本当に楽しんでこの仕事をしていることを知って、日本の伝統が今後も引き継がれていくことに安心いたしました。とてもユニークで良いテーマの回だったと改めて思っております。

50代男性

戦国最後のラストサムライ水野勝成。一番やり、初陣、織田信長にも絶賛された武将にも関わらず、父親に勘当されるが、秀吉の死後、戦乱の時代になり、家康の口添えで父親と和解し水野家に戻ることを許され、家康の元で関ヶ原の戦いに、大坂の陣に参戦し武功をあげていく。若い頃のように最前線でのやり働きはしないよういましめられる。戦乱の時代も終わり、勝成は福山10万石の領主になり、いくさしかしらない勝成でしたが、名君でもあり、静かな余生を暮らすと思いましたが、大坂の陣から20年後に島原の乱がおこり、70才過ぎてから島原の乱に参戦するありさま、戦国最後のラストサムライのラストステージへ。いくさ一点張りの勝成の福山での名君の顔と、戦と民の平和を望む2つの面を持つラストサムライ。87才になっても36メートル先の的を鉄砲で撃ち抜く、鬼日向と称された水野勝成、家康のいとこでもある水野勝成、最後まで戦国の武士だったと思います。私は歴史好きで徳川家康好きですが、この番組で初めて水野勝成を知りました。鬼であり、一番やりの手柄をあげることもしばしばあったように、知将ではなく武将です。歴史では表舞台にはあまり出てこないイメージがありますが、これからは戦国時代劇、大河ドラマでも脇役でもいいので取り上げて欲しいです。

30代男性

歴史上の様々な人物や出来事に色々なスポットから焦点をあて、新たな事実なども描かれているから好きな番組だったから戦国武将の回は必ず見ています。そして、戦国武将以外に近年では日本のアニメやゲームといったポップカルチャーなどジャンル幅広く取り上げられているのが興味深かったです。その中でもガンダムと高橋留美子、ファイナルファンタジーは神回でした。ガンダムと高橋留美子の回では当時の時代背景から制作陣の苦悩や葛藤などの裏側も描かれ、派生番組の大全集の中間報告もかねて作品やキャラクターといった人気ランキングが発表されるなど改めてガンダムや高橋留美子の作品の面白さを実感しました。そして、ファイナルファンタジーの回が最も印象的でした。これまでのシリーズのエピソードとゲームシステムを当時の画期的な技術として紹介しながら作品ごとの人気のエピソードが実際の映像を用いて語られた時には思わず当時にプレイした記憶が甦りました。解説がしっかりとされていたので、当時ではわからなかった意味も理解することができ、特に3や6のエピソードがナレーションと共に語られた時は思わずウルっとしてしまい、思わず押し入れに眠っていたゲーム機を取り出して再びプレイし始めてしまいました。

60代男性

丁度、NHK大河ドラマの「麒麟が来る」に合わせて明智光秀、織田信長関連のトピックスが取り上げられて興味を引きます。信長の比叡山延暦寺の焼き討ち事件といい、次回、6月10日が、延暦寺開祖の最澄を取り上げるので楽しみです。焼き討ちといえば光秀と同じ時代を歩んだ松永久秀も放送予定ですが、奈良の東大寺の焼き討ちにも関係していた松永久秀との対比もできるかも判りません。松永も足利義輝を殺し東大寺を焼いたことで、信長が徳川家康に喜んで松永紹介したようですが、松永も信長も極悪非道人という固定観念を覆す真実があるかも判りません。その他、浅井長政が信長の妹の、お市をめとっても朝倉義景と組んで信長に叛旗を翻して姉川の合戦に臨む経緯や、足利義昭が信長討伐を石山本願寺、興福寺、毛利、上杉、武田に呼びかけるまでの経緯も取り上げて欲しいです。そして明智の本能寺の変を起こした理由が、怨恨説が過去は有力だったようですが、徳永家康、イエズス会との共謀説や、足利義昭と組んだ鞆幕府推戴説、信長の既存の社会概念を破壊する構造改革反発説、四国攻めまで企んだ信長の暴走阻止説、秀吉の陰謀説、光秀突発犯行説など色々あるようですが、再度、番組で検証して欲しいです。この番組の興味深いのは、新たな史実の発掘と共に、様々な観点からの歴史考証の機会を与えてくれる点です。願わくばNHK大河ドラマの歴史考証にも関与がある東大史料編纂所の本郷和人先生のコメントがたくさん聞けたらもっと、楽しいです。

40代女性

世にもマジメな魔王 織田信長 最新研究が語る英雄の実像 (2019年10月放送)最新研究で信長の実像に迫った回です。第六天魔王の名乗りが自称でしかも最初にネタを振ったのが、武田信玄の「私は大僧正!」という事実!当時の言語感覚はやはり現在のとは違うのか…。とか新しい発見がありました。(まあ元々、子供達の幼名のセンスがかなりの謎なセンス。奇妙丸、茶筅丸、五徳って迄はともかく、人、は無いだろう。仕えた家臣たちはなんと呼んで育てたんだろう…)「盟約をいきなり反故にし好戦的な性格で、既存の権威を徹底的に否定する不信心者、家臣をいきなり扇子で打擲する粗暴な覇王」と思われてきたのが、イメージが作られたのは江戸時代以降の軍記物語が始まりで、一次史料には無いものがほとんどという事実!
真実は、信長から結ばれた同盟を一方的に破棄したことがほぼないこと(浅井・朝倉戦、比叡山焼き討ちなど)、朝廷や幕府の権威を尊重したこと(御所の修繕、資金の提供、官位は受け取ったのち丁重に致仕していること。そもそもこの時点で家督は信忠に譲ってある。)特に義昭の危機に無謀と言える行軍を決行し雪の京都へ駆けつけるのは、純粋ささえ感じる。「天下布武」の天下とは畿内とその周辺を指すというのは、目から鱗!宣教師の記述からも、早起きで政務にかかり礼儀正しい清潔好き(当時のヨーロッパの衛生基準が怪しいが)の信長像が浮かび上がる。秀吉や利家にこそ「犬!(幼名が犬千代、小性出身)」「猿!(これは仕方ないかも…)」と接しているが、中途採用組の藤孝は、終生官名+殿、呼びでその礼儀正しさに心酔していたのも有名。これからも最新研究が楽しみです。

20代女性

2018年に放送された「縄文1万年の美と祈り」は神回でした。放送以前、社会学を専攻していた教授が「縄文時代は唯一、人の上下関係や差別がなかった時代、だから、縄文時代を追究して見習うのが現代人が幸せになるための近道だ」と仰っていました。なので、個人的にも縄文時代には思入れが強かったのです。現代、特に女性は月の満ち引きで体調の変化を観察してダイエットや生理周期を見直すよう、働きかける媒体が増えているように思います。そうした、考えはまさかの縄文人とも通じるところであると放送によって知りました。時計というものも、カレンダーというものも、なかった縄文時代、縄文人は空に浮かぶ月の様子に、一際の眼差しを注いでいたのでしょう。月が満ちていく様子は、真っ暗な場所「生き物の存在しない場所」からやがて、金色が顔を出し、凄まじいエネルギーを思わせる満月へと変貌していくのです。その様子を、人の、特に女性の体の変化と結びつけてしまう感覚を持つ縄文人の感性は鋭さ以外の何物でもないでしょう。月を愛でながら、月に捧げる躍りを舞う、生を受けて、活動できる喜びを感謝として表現するなんて、縄文人には心のゆとりが感じられます。心のゆとりばかりか、満ちた月が引き、また満ちる様子に命の循環を投影させ、尽きた命を大地に委ねるという考えが持てるなんて、思考が非常に前向きです。きっと、争いをして、勝敗を感じて朽ちていく、なんて事柄がなかったためでしょう。また、放送を見ながら、大地を母なる母胎として屈葬させるというのは地球そのものを母と考えているからなんだなと思いました。今でこそ、地球が生命を育む母のような存在というのは、過去に生きた痕跡をたどることで見出だす考えだと思います。縄文人が何物かが生きた痕跡をたどったのかは分かりません。もしかしたら、狩猟や採取の中で恐竜の化石なんかを見つけたのかもしれませんが、たどっていないとすれば、月を愛でる日々によって、母なる大地を諭してしまう縄文人の感性は慈愛に満ちたものであったと想像されてなりません。

50代女性

もう10年以上前になりますが小説家、太宰治を取り上げた「絶望するなダザイがいる~太宰治「人間失格」誕生秘話~」が私にとっての神回です。私は昔、太宰治の小説が大好きでした。しかし彼の人生を紐解いていくうちに、その異常とも言える行為の数々に疑問を抱くようになりました。心中未遂に自殺未遂。それは一度や二度ではありません。そして不倫相手と子供を作り、また、別の女性と心中を遂げたのです。奥さんと3人の子供を残して。まさに「人間失格」。この小説はまさに太宰治自身がモデルなのです。番組では太宰治が人間失格を執筆するまでの人生を振り返っていきます。芥川龍之介に憧れ、芥川賞にこだわった若き日々。私生活の乱れを指摘され候補に上がりながらも受賞を逃した挫折など、赤裸々に取り上げられました。なぜ、そこまで芥川賞に固執したのか凡人の私には理解できませんが、彼なりの理由があったのでしょう。その後、彼は結婚し、「走れメロス」などの健康的な作品を精力的に執筆します。が、戦争がまた、彼の人生をどん底へと突き落とすのです。終戦後、手のひらを返して戦争を批判したり、民主主義を持ち上げる風潮に絶望したのです。やがて太宰治は「人間失格」を書き上げたのち、戦争未亡人と心中を遂げます。私は太宰治の作品は好きですが、生きざまは大嫌いです。しかし、太宰の2人の娘が作家という父と同じ道を選んだということは、彼の父としての存在価値はあったのだろうと感じています。

40代男性

私がこの番組で印象に残っている回は「藤原頼通」に関する特集の回である。平安時代の貴族である「藤原道長」の息子である藤原頼通。彼は「平等院鳳凰堂」を建立したことで有名である。ではなぜ藤原頼通は平等院鳳凰堂の建立を思い立ったのだろうか?という問いに対する結論が印象的で面白かった。平等院鳳凰堂の建立を思い立つまでの頼通は権力をほしいままにするためにいろいろ策謀を巡らしていた。その中で多くの人間を蹴落として権力を手に入れたという解説があった。私は今まで教科書などを読んでいて頼通=平等院鳳凰堂のイメージしかなかったのでそれは知らなかった。そんな頼通はある夜から夢でうなされるようになったらしい。夢の中ではかつて権力をほしいままにするために蹴落として無念の死を遂げていった者たちが出てきたとのこと。そんな夢ばかり見る頼通は「このままでは自分は死後間違いなく地獄行きになってしまう!」と相当怯えたそうである。権力者もやはり地獄には怯えるんだと私は思った。そこで頼通は「往生要集」という本から「極楽浄土」に行くためには何が必要か?を学び平等院鳳凰堂の建立に考えが及んだとのこと。平等院鳳凰堂は「極楽浄土はこんな風になったいるのでは?」と頼通のイメージが形になっているらしい。なるほどと私は思いながら今度平等院鳳凰堂に行ってみたいと思った。